もっと子だくさんだった」と言って、
現代のわたしたちが経済的事情で子どもを
持てないことを不当な主張だと言う人です。
自民党の桜田義孝衆院議員が「子どもを3人くらい
産むようお願いしたい」などと発言しましたが、
それが批判されたことを受けてものものです。
「貧困だから子供産めないのに桜田ときたら」
— ミランダmk-Ⅱ (@mobirufosugang2) 2019年5月31日
これが本当なら江戸時代明治大正昭和初期のまだ日本が今よりずっと貧しかった時代の日本の子沢山はどう説明するの?
戦後入ってきた個人主義、エセリベラリズムが少子化の一番の原因でしょ
つまり今ワーワー騒いでいる連中の撲滅こそが一番の少子化対策
人口減少や子育ての負担の話題になると
「むかしは貧乏でも多産だった」と言う人は、
よく出てくると思います。
あまりにも現実を知らない、
お気楽かつ無責任なもの言いだと思います。
むかしも子どもを産むことや育てることは、
経済的負担がかかることに変わりないです。
貧困な家庭は子どもを持てないこともあります。
前後の時代とくらべて、あきらかに貧困の
時代だった太平洋戦争の敗戦直後は、
まさに「貧乏子だくさんではやっていられない」
という人が、たくさんいたのでした。
終戦直後の感覚ね〜。避妊が普及してなくて子が多く生まれたんだよね。しばらくしたら中絶(既婚者の)増加、避妊普及、戦後の10年で出生率は3人台から2人台に激減。貧乏で子だくさんはかなわん、と当時の人も思った。
— kirikomio (@kirikomio) 2014年10月18日
戦中の『戦時人口政策』による
「産めよ増やせよ」の影響がまだ残っていて、
敗戦直後はベビーブームでした。
貧困の時代に子どもが多いことが、個人的にも
社会全体としても、経済的に負担となりました。
そのせいで、敗戦直後は妊娠中絶と、
捨て子や孤児がきゅうに増えた時代になりました。
メインブログの2018年7月2日エントリで
くわしく書いているので、引用しておきます。
「中絶と孤児が増えた敗戦直後」
https://t.co/Vvo4n12ARe 太平洋戦争敗北直後のあきらかに前後の時代より貧しい時代、日本は中絶が増えた。優生保護法を改正して中絶の規制を緩和した https://t.co/aW78I4mHTB 。理由は貧しくて子どもを育てられないから
— たんぽぽ (@pissenlit_10) 2019年6月2日
敗戦直後は妊娠中絶をする人が多かった時代です。
闇で中絶手術を受けることは危険なので、
1948年に優生保護法を改正して、
妊娠中絶を受けられる条件を緩和したくらいです。
「優生保護法の成立(昭和23年)」昭和23年7月13日、優生保護法が公布され、
妊娠中絶の条件が緩和された。
当時の優生保護法の目的は中絶によって終戦後の人口増加を
抑制することであり、さらに重要なことは、
危険なヤミ堕胎を減らし妊婦の健康を守ることであった。
『<非婚>のすすめ』(森永卓郎著、講談社現代新書)の24ページに、
そのときの様子がすこし述べられています。1948年9月から施行された優生保護法が、
条件付きで人工中絶を容認したことがきっかけとなった。
1949年にわずか10万件だった人工中絶は急激に増加し、
ピークを迎えた1955年には117万件と、
その年に実際に生まれた子供の数の68パーセントにも達したのである。
しかもこの中絶件数は公式に届け出があったものだけで、
闇に葬られてしまったものを含めれば、
中絶数は出生数を上回る200万にものぼったとする説もある。
ピークの1955年以降の妊娠中絶の件数と割合は、
次のように推移しています。
現在(2009年)まで件数も割合も、ほぼ単調に減り続けています。
中絶の条件が緩和された1948年からの数年が
もっとも中絶が多い時代だったことがわかります。
「出生数と中絶数をだらだら並べてみたり そしたら少妊娠化がみえてきた」
https://t.co/Vvo4n12ARe 敗戦直後の日本は、捨て子や孤児も多かった。捨て子台を設置した病院もあった。孤児院もたくさん増設された。理由は貧しくて子どもを育てられないから
— たんぽぽ (@pissenlit_10) 2019年6月2日
敗戦直後は捨て子や孤児が多い時代でした。
捨て子が多いので「捨て子台」なるものを設置して、
子どもを捨てられるようにした病院もありました。
孤児院(児童養護施設)も急激に増え始めました。
「虐待の援助法に関する文献研究 (第1報:1970年代まで)」1946年の「東京済生会病院 『捨子台』」とあるのは、
終戦直後捨て子が多く、特に産院での捨て子が増えていたため、
「東京、芝の済生会病院では70余人を数え、『やむをえない人はここに捨てよ』と
貼り紙した『捨子台』が作られた(p.136)」という記事である。
児童福祉の視点からこの時期をとらえると、
混乱と生活困窮のなかでのベビーブームの到来による
乳幼児の増加と戦災孤児や浮浪児の急増があげられる。
孤児や浮浪児などを保護する緊急対策として、
一時保護所、児童保護相談所、児童鑑別所などが急速に設置され始める。
「児童保護施設、なかでも育児院や孤児院などが増設され、
その数は敗戦直前の89カ所から1946年には171カ所、
1947年には306カ所まで増加した」
戦争が終わったばかりなので、戦争で親をなくして
孤児になった子どもも多かったです。
戦後の生活困窮の時期にベビーブームとなったので、
親が育てられなくて孤児となる子どももたくさんいました。
1970年ごろの子ども向けアニメは、
『タイガーマスク』『科学忍者隊ガッチャマン』といった、
主人公が孤児という作品がいくつかありました。
これは敗戦直後に孤児が多かったので、
孤児が登場することにそれだけリアリティがあった、
ということでもあるのでしょう。
『愛と暴力の戦後とその後』という本にその指摘があります。
以下のエントリからの孫引きですが、引用しておきます。
「「みなしご」(メモ)」三つ目は、子供向けアニメなどに見られた「みなしごもの」である。
七〇年代の漫画やアニメには、みなしごが主人公のものが数多くあった。
それのいちばん有名な例は『タイガーマスク』*4だろう。
みなしごが悪のプロレス養成機関に育てられるが
正しいほうへと転向し、稼いだお金を
孤児院に匿名で寄付し続ける、という話だ。
男四人女一人の少年少女からなる科学忍者隊は、
一人を除いてみなしごで、疑似家族のように寄り合って暮らし、
天才科学者南部博士のもとで、地球の平和を守るために
働いて(働かされて?)いる。