2016年04月03日

絶望の中から希望が生まれた(2)

4月2日エントリの続き。
はてなダイアリーの匿名記事「保育園落ちた日本死ね」を
国会で取り上げた、山尾志桜里議員のインタビュー記事です。

「<山尾志桜里議員インタビュー>「絶望の中から希望が生まれた」ー待機児童問題」
(はてなブックマーク)

ここではなぜ「日本死ね」となったについても触れています。



誰を非難していいかわからない。自治体を非難すればいいのか。
市役所さんの職員さんを非難すればいいのか。保育園を非難すればいいのか。
県を非難すればいいのか。国を非難すればいいのか。
それとも競争に受かったお母さんたちに怒りをぶつければいいのか。
誰にぶつけていいのかわからない結果、
「日本死ね」っていう言葉になっているんですよね。
決して個人攻撃や、ぶつける対象を間違っているものでもない。

自分の生活が八方塞がりで、だれを批判すればいいのかわからない、
それで自分をこのような状況にした総体に向かって
「死ね」と言っているということになるのでしょう。
その意味では「日本死ね」の「日本」に明確な主体はなく、
だれかを指しているのではないことになります。


八方塞がりといえば、こんな現状もあります。
あちこちから理不尽な要求を押し付けられて、
それらの中にはたがいに両立しえない矛盾したものもあります。
そうなると周囲の不特定の全方向に向かって
批判せざるをえないというものです。
その「周囲の全方向」が「日本」だったとも言えます。

「女性を取り巻く理不尽な環境」


「女性の生きざまの現実」


記事のタイトル「絶望の中から希望が生まれた」は、まさにそうだと思います。
「日本死ね」というのは、八方塞がりでだれを批判したらいいか
わからないという「絶望」を言い表したといえます。
そこに多くの賛同者が現れ、まがりなりにも政治が動くに
いたったのですから、「希望が生まれた」と言えるでしょう。


「保育園落ちた」の記事は、ネットの匿名意見に対して
どう向き合うかという問題でもあったのでした。
記事に関しては、同様の状況にある人がたくさんいて
その代表であること、そして「どこにでもあるありふれたこと」を
書いたことが大事であって、だれが書いたかは
たいして重要でないことになります。

与党の一部議員は「匿名だから信用できない」という態度で、
最初は「保育園落ちた」を切り捨てようとしたのでした。
これは「匿名の後ろに隠れて無責任な主張をする、
とくに無責任な個人攻撃をする」というケースと
同列に扱おうとしているということだと思います。

「平沢勝栄・匿名記事に論難」

「保育園落ちた」の記事は個人攻撃とは言えないし、
匿名の後ろに隠れて無責任な発言をしているのでもないです。
よって「匿名だから信用できない」というのは、
ことの本質をすり替えたと言えるでしょう。

もちろん、責任を持たず個人攻撃をしているブログを
取り上げるかといったら取り上げない。
今回の非難の対象は、どこか特定の個人でも、
特定の政党でもなければ、政治家を非難するものでもなかった。
当初安倍総理を非難するものでもなかった。


ネットでも「匿名だから信用できない」と言って切り捨てる人は、
結構な識者の中でもときどき見受けられます。
内容と無関係に主張を否定できるもの言いなので、
とくに都合の悪い批判から逃げたい人の中には、
便利とばかりに使いまわす人が後を絶たないのでしょう。

「リフレ派からブロックされた」
「手あかの付いた匿名の議論」

(そういう人にかぎって、匿名の後ろに隠れた無責任な個人攻撃を
擁護したりみずから参加したりしないだろうか?)

posted by たんぽぽ at 20:10
"絶望の中から希望が生まれた(2)"へのコメント
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