とくにつぎに引用するコメントについて、
わたしが思うことを述べておきたいと思います。
http://tamagodon.livedoor.biz/archives/51909609.html#comments
私は自分が正しいと思ったことを発言しますし、
他人からどう見られるかも重要視しません。
たんぽぽさんを敵に回す?議論が始まるだけですよ。
そして私が間違えていたと分かったら、いつでも頭を下げる用意があります。
もっとも、たんぽぽさんが私と同じ感性なのかは疑問ですけどね。
(2015年10月12日 08:15)
今までのたんぽぽさんの行動から判断すると、
私を敵と見做して排除される可能性は否定できません。
あの人は議論と人格否定との境界が曖昧な人という印象を持っています。
もし排除されたら?そりゃ仕方のないことでしょう。
(2015年10月18日 07:56)
額面通りなら議論に対してとても誠実な態度です。
問題は「私が間違えていたと分かったら」という判断は、
どこまで適切で妥当にできるかということです。
基本的に「自己評価」「自己申告」だからです。
一般的なケースとして、あきらかに間違った主張をしていることが
しめされているのに、「自分は間違っていない」とか、
「自分が間違いだとしめされたわけではない」と
言い続けることは、珍しくなくあると思います。
これには当人が本当にわかっていない場合もあるし、
内心ではわかっているけれど、自分の間違いを認めたくなくて、
わざと言い続ける場合もあると思います。
実際の議論においては、議論の収拾がつかないのは、
「自分の理解がふじゅうぶん」な場合と、
「相手の説明がふじゅうぶん」な場合と両方があって、
どちらに原因があるか(あるいは両方に原因があるか)は
もちろんケースバイケースです。
ところが自分が議論に対して「誠実」と思っている人は、
「自分は誠実に議論しているのだから、相手にじゅうぶんな
根拠がないということだ」と考える可能性があります。
つまり自分の「理解責任」に原因があるのに、
相手の「説明責任」に原因があると考えるということです。
また、自分は議論に対して「誠実」だと表明することで、
自分の「理解責任」を相手の「説明責任」に
転嫁するための「方便」にもなることがあります。
「自分は誠実なのだから、収拾がつかないことになったら、
あなたのせいに決まっているからね」ということです。
「議論をして、あなたが原因で問題が起きたらあなたのせい、
自分が原因で問題が起きてもあなたのせい」ですよ。
本人にそのような「方便」を使う意図がなくても、
見ているかたがそのように印象操作される可能性もあります。
とくに議論が紛糾した場合、この印象操作はやりやすくなります。
付記1:
このエントリはあくまで「一般論」として書いています。
「たまごどんもきっとこうする」と言っているのではないです。
お断わりしておきますよ。
付記2:
選択的夫婦別姓の反対派(非共存派)との議論を思い出したのですよ。
彼らはどれだけの根拠をあげても、頑迷きわまりなく
「自分には理解できない」と言い続け、
「賛成派はもっと説明する必要がある」と言ってきます。
彼らは最初から理解するつもりはまったくなく、
賛成派に無限の説明をさせて疲弊させたいだけなのでしょう。
かかる非共存派たちは、まさに自分の「理解責任」を、
相手の「説明責任」に転嫁する人たちということです。