三春充希氏はは子ども時代の
自由と広い世界を少しでも
取り戻すために、政治に託している
という趣旨のことを言っています。
「遊びはどこへ」
子供の世界は失われることが運命づけられた世界だ。
この社会は子供の感性を失わないと生きられない。
逆に生きることで感性はそぎ落とされてしまう。
その悲しい事実を変えていくことが
政治を変えていくことと重なって見えてくる。
過去を失ったのなら、
あとは未来を手に入れるしかない。
一人一人が持っているなつかしい子供の視野、記憶。
そこで出会ったものたちや、
あげた歓声、一つ一つの手ごたえ。
そういうものを再び全世界的に
回復させることを望む。
政治でなにをどう変えるのか、
という問題があります。
リンクした記事には、具体的なことは
なにも書いていないです。
それでも三春充希氏がこれまでの
記事でどんな政治的主張を
しているかを見れば、容易に推察は
できることだと思います。
たとえばつぎの記事で述べられている
個人が力を発揮できる社会を作る
ということだろうと思います。
「「今」を歴史の転換点にしよう」
それは、人間が力を発揮できる
社会を作るということにほかなりません。
結局のところ、人間社会の発展は、
人間が力を発揮するということにしかないからです。
必要な「もの」や「こと」もまた、
そこからしか生み出されないからです。
だから様々な職業、世代、地域に
住んでいる人たちが、まさにそのことに
よって力を発揮できないという事態を
解決しなければならないのです。
この30年間、そうしたことが
ないがしろにされた結果、日本はまったく
生きづらい社会になってしまいました。
こんな衰退が起きているのは
日本でしかないということの異常さを、
新型コロナで様々な矛盾を
目の当たりにした以上、
もはや看過することはできません。
個人が力を発揮できるということは、
それだけ個人が自由に活動できる
社会ということだと思います。
そうした社会が実現すれば、
「子ども時代の自由」が取り戻された
状況に近づくことにもなるでしょう。
現状の日本は、個人が力を発揮できる
社会になっていないということです。
それは多様性が尊重されず、各人の個性が
圧殺されていることによります。
そしてそれは平成30年間の停滞と
衰退の中、非正規雇用が進んだり、
ブラック企業が横行するなど、個人の生活が
苦しくなり続けたことに原因があります。
かかる国民生活の困窮は、
政治の無力ゆえにもかかわらず、
「自己責任」されてきました。
かくして多様性が尊重されず個人が能力を
発揮できない社会が続くことになります。
「なぜ投票率はこんなにも低いのか? なぜ無党派層はこんなにも多いのか?
それは『ある時』に始まった。――「武器としての世論調査」番外編② 」
終身雇用が崩壊し、労働者の権利が後退し、
非正規化が進み、ブラック企業が野放しにされ、
多くの人たちが、安定した雇用の中で
結婚して子供を育てるという
従来の生活スタイルを作ることが
できなくなっていったのです。
社会に出ていく時にいつも
そういう展望を描けない道へ進まざるを
得なかった人たちがいました。
政治はそれに対して無力であり、
政治に距離を置く層や、
政治に失望した層が多く生まれました。
「そしてあの時、少子化を避ける最後の道をなくした――「武器としての世論調査」番外編③」
非正規化雇用を進め、労働者の解雇をしやすくし、
ブラック企業やサービス残業を
野放しにしてきたのは政治の選択です。
前回の記事では「政治はそれに対して
無力であり」と書きましたが、
本当にはっきり書くならば
それは政治が行ったことです。
そういう政治のあり方にたいして、
当時の若者は、そして非正規雇用が
さらに拡大している今の若者は
どう思っているでしょうか。
投票率や無党派層を考える時、
第2次ベビーブームから下の世代で
投票率が特に低く、無党派層が
圧倒的に多いことは、とても示唆的です。
「多様性が尊重され個人がその能力を
発揮できる社会」は、多くのかたが
賛同するだろうと思います。
そのための具体的な政策もふくめて、
「子ども時代のノスタルジー」に
ほとんど共感しないわたしでも、
賛同できる政策・理念となっています。
三春充希氏の主張は個人的な
感情に端を発してはいます。
それを社会全体の利益と結びつけた
政策・理念というかたちで
発揮しているということです。
このような政策・理念の発揮のしかたが
できることが、「政権担当能力」として
重要ことになると思います。