2022年11月22日

「恋愛で広い世界を失なう」とはなにか?

11月20日エントリの続き。

三春充希氏は「人は恋愛で子ども時代の
自由を失なう」と考えるのですが、
これはどういうことかと思うところです。

「遊びはどこへ」

 
かわりにぼくたちの多くは
異性を意識するようになった。
けれどそれは多くの仲間と世界を共有するのとは違い、
恋愛へ、やがて家庭へと、男女、男女で細かく
振り分けられていくことに近かった。

異性に輝きを見ていたのは間違いない。
けれど振り分けられて囲い込まれて、
それは二度と子供の頃のような広大な世界を
持つことができない道でもあるのだった。

見たところ、結婚生活、家庭生活という
狭い世界に閉じ込められることが、
ものたりなくて不満なようです。
その「狭い世界」に閉じ込められる
最初のステップが恋愛だというのでしょう。

三春充希氏は「恋愛したくない」
とまでは言っていないです。
実際、経験もあるものと思います。
それでも代償として「広大な世界」を
失なうことは不満なのでしょう。

まわりのともだちがみんな
恋愛を優先させるようになって、
いっしょに遊び回ってくれなくなった
という不満も、このあたりには
あるのかもしれないです。


もしかすると三春充希氏は
ビーダーマイヤー的なものに対して
拒否反応があるのかもしれないです。

そんな小市民的な暮らしは
こころよしとしない、もっと世界を股に
かけるようなスケールの大きいことをしたい、
ということかもしれないです。

そうだとしたら、このあたりには
男性的な発想を、わたしは感じます。


わたしに言わせれば、それでも素敵な
相手と恋愛できるなら、世界を股に
かけなくてもいいのでは?と思います。

少なくともともだちと無邪気に
遊び回っているよりは、素敵な恋愛を
したほうがいいと、わたしは思います。

ビーダーマイヤー的小市民には、
わたしもそうなりたいとは思わないです。
それでも恋愛や結婚をしたからと言って、
かかる小市民的な家庭生活になると、
決まってもいないです。


posted by たんぽぽ at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 家族・ジェンダー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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