こんな記事をノートに書いています。
わたしはこれに思わず注目しました。
「遊びはどこへ」
現代の社会のおとなたちは、
子ども時代の「継承」をするのではなく、
「断絶」することで生きていると、
ここでは述べています。
そしてこのような「子ども時代を
失なわなければならない社会」は
なにかおかしいのではないかという懐疑を、
三春充希氏はしめしています。
より具体的には、子ども時代は目的もなく
ただひたすら遊びに熱中できた、
そんな子ども時代を、おとなになると
失なう宿命になる、ということです。
遊びはどこへ消えていくのだろう。
それは、本当に失っていいものなのだろうか。
けれど子供は目的もなくひたすらに、
生きることが遊ぶことであるように遊ぶ。
生涯のほんの一時期だけ、
人はそういう世界を生きるのだ。
ぼくはその頃に本物の自由に触れられた気がする。
これだけだと「深淵な非もて」の
「後藤文彦」と同種の「子ども時代は
至福の幸せでよかった」という、
甘いノスタルジーに聞こえると思います。
「子ども時代の幸せは「コップの中の自由」」
三春充希氏は、「後藤文彦」とは
大きく異なる考えかたをしています。
そのひとつは次の引用で示されます。
「子どもは能力がいちじるしくとぼしい、
それゆえごく狭くて管理もされた
『コップの中の自由』でも、
無制限な自由と感じられた」ことの指摘です。
それは保護された小さな世界にすぎなかった。
強いられたこともたくさんあった。
けれど行けるところも為せることも
少なかったあの時代、仲間と駆けた
一丁目や二丁目は全世界に等しい
広さがあるように感じられた。
三春充希氏はなぜ子ども時代は
至福のしあわせにひたれたのか、
その原因を分析して客観的に
見ている、ということです。
これはただ「子ども時代は至福の
幸せだった、そのころが懐かしい」と
いうだけで、なぜ至福の幸せと思えたのか、
考察にいたらない「後藤文彦」と
大きく異なるところです。
三春充希氏はさらに、成長するにつれて
「至福の幸せ」は損なわれていく
ということを指摘しています。
これも原因を客観視しています。
「成長によって自分にできることが
増えていったから、社会のリソースの壁に
当たるようになった」ということです。
子供は成長するにつれて次第に
できることを増やしていく。
遠くに出かけて多くを手にし、
多くに出会うようになる。
けれど立ち止まって空を仰ぐとき、
ふと世界が狭く苦しくなったような
気持が浮かんできてしまうのを止められない。
子どもは成長しても、社会のリソースは
ほとんど変わらないということです。
それゆえその子どもには世界のほうが
狭くなったように感じるということです。
「後藤文彦」も自分は成長するに
つれて不幸になっていった、
ということは何度も述べています。
それでもそれをただひたすら嘆き、
残念がり恐怖するだけです。
さらに三春充希氏は「解決策」として、
未来を政治でよりよくすることで、
子ども時代の感性を持ち続けられる社会に
少しでも近づけるのではないか、
と考えていることがあります。
子供の世界は失われることが
運命づけられた世界だ。この社会は子供の
感性を失わないと生きられない。
逆に生きることで感性はそぎ落とされてしまう。
その悲しい事実を変えていくことが
政治を変えていくことと重なって見えてくる。
過去を失ったのなら、
あとは未来を手に入れるしかない。
一人一人が持っているなつかしい
子供の視野、記憶。そこで出会ったものたちや、
あげた歓声、一つ一つの手ごたえ。
そういうものを再び全世界的に
回復させることを望む。
自分の個人的な思いにはじまって
いるとはいえ、社会全体の利益と
結びつけて発揮させることを
考えているのは、建設的だと言えます。
子ども時代のように甘やかされたいから、
恋愛と称して女性を搾取することを
追い求めた「後藤文彦」の自己中心的な
発想とは、まったく対照的です。