2022年10月23日

子ども時代の幸せは「コップの中の自由」

わたしが何度かブログで話題にしている、
「深淵な非もてのサイト」
「後藤文彦」氏ですが、自分の子ども時代は
至福の幸せにひたれた、と言っています。

「落どした場所 > 前書ぎ」


 
2)私の今までの人生において、
子供時代(特に十歳以前)は、
手放しで 「しあわせだった」と言い切れる
至福の日々であったと思っている。
それ故に、当時の記憶は、自分の記憶の中でも
最も貴重な部類に属する大切な 思い出である。
年を取るほどに過去の記憶は薄れ、また美化されていく。

そうした記憶を少しでも正確に
覚えているうちに書き残しておきたい
(老後の自分が懐かしむためにも)。

それでこの「後藤文彦」氏は、
いつまでも「甘ったれたがきんちょ」の
精神構造を引きずっているのでしょう。

そしてそんな自分を甘やかして
ほしくて、恋愛の名のもとに女性を
搾取しようと、はなはだ問題含みなことを
考えていたということです。

「恋愛の名のもとの搾取」
「精神的に「お子さま」な非もて」


今回わたしが問題にしたいのは、
子ども時代は本当に「至福の幸せ」
だったのか、ということです。
じつは「至福の幸せだった」と思っていた
(思わされた)だけではないか?
ということも考えられます。

子どもはおとなとくらべると、
自由や権利が著しく制限されます。
選挙権はないし、就労の自由もないから、
自分で金銭を得ることができないです。

子どもとは親や教師など
まわりのおとなたちからの庇護が
必要な存在ということです。
それは庇護者であるおとなの都合で
いつでも簡単に自由や権利が
損なわれうるということです。

そう考えると、子どもなんて
しょせんは無権利状態と言えます。
そんな時期に至福の幸せにひたれるとは
とても思えない、というものです。


現実には「子ども時代は本当に
幸せだった」と回想する人は結構います。
そんな彼らも子どものときは、自由と権利が
著しく制限されていたはずです。
それでなぜ彼らは至福の幸せを
感じられたのと思うところです。

子どもは体力、腕力、知性、常識、
判断力、経済力、責任能力など
あらゆる点において、おとなより
能力がはるかにおとります。
つまり子どもにできることは、
極端にかぎられるということです。

それゆえ「コップの中の自由」でも
無制限な自由があったと、
感じられるのだろうと思います。
そう感じられた人たちだけが、
「子ども時代は至福の幸せにひたれた」と、
回想できるのでしょう。


posted by たんぽぽ at 19:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 家族・ジェンダー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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