「不寛容を否定することが多様性の尊重である、
そして選択的夫婦別姓に反対することは
不寛容なので、多様性の観点から
否定することになる」ということを、
わたしはツイッターでもお話しました。
https://t.co/RK27icUJl0 「多様性の尊重」のためには、「多様性に反する不寛容を否定する」ことが必要です。選択的夫婦別姓に反対することは「不寛容」なので、そのような言動を徹底的に否定することが「多様性の尊重」です
— たんぽぽ (@pissenlit_10) August 22, 2021
「多様性を認めない不寛容も認めるのが多様性だ」などと、自己矛盾した狂ったことを言い出すのは、選択的夫婦別姓の反対派(非共存派)によくあること
— たんぽぽ (@pissenlit_10) August 22, 2021
最初の選択的夫婦別姓の反対派(非共存派)は
自分はそう思わないと言ってきました。
不寛容に寛容になることの矛盾が
理解できないということでしょうか?
あ、俺はそう思わないからツイートしただけなのでw
— 宅造#SSTR2021【0293】 (@ticktack08241) August 22, 2021
どこがどう不寛容なのか是非皆さんにご理解頂けるようアピールなさってください!!
そういうのはいいから分かりやすく具体的に説明してくださいな!
— 宅造#SSTR2021【0293】 (@ticktack08241) August 22, 2021
何故、反対することは多様性でないのか?
出来ないならただの言葉による虚飾ですw
他者に対して不寛容な人たちに
寛容になると、寛容に扱われた人たちは
「他者」に対して不寛容になってよい、
それが認められたと考えます。
そして彼らはその「他者」に対して
実際に不寛容となり、その「他者」に対して
寛容な社会はまっこうから否定されます。
それゆえ寛容な社会の実現のためには、
不寛容を否定する必要があるということです。
それが9月1日エントリでお話した
「ポパーの寛容のパラドックス」です。
自分自身を否定する考えかたを
取り込むことはできない、
取り込んだら矛盾だというのは、
あたりまえのことだと言えます。
「寛容な社会」という課題に関しても、
その例外ではなかったということです。