ここでの作者は「広告の作者」であって、
藤子不二雄ではないこと、そして亡くなった
作者の考えも考察できることを、
「野比しずか」の広告を擁護する
選択的夫婦別姓の反対派(非共存派)に、
わたしはツイッターでお話しました。
https://t.co/57OyF52AP1 ここでの「作者」は、問題の広告の作者です。『ドラえもん』の原作者ではないです
— たんぽぽ (@pissenlit_10) May 17, 2021
作者がすでになくなっている作品でも、作者がなにを考えてその作品を作ったかを考察することはできるし意味がある。もちろん考察するのは、その作者が作品を発表した時点での考えだ
— たんぽぽ (@pissenlit_10) May 17, 2021
「すでに亡くなっている作者の考えは考察できない」とでも思っているのかな? そうであれば作者が亡くなっている世界中のあらゆる古典の鑑賞は不可能になる
— たんぽぽ (@pissenlit_10) May 17, 2021
そうしたら広告を擁護する
選択的夫婦別姓の反対派(非共存派)は
なにを思ったか、「新聞広告を出しただけで
人民裁判のような吊し上げを
喰らう」などと言ってきました。
新聞広告を出しただけで人民裁判のような吊し上げを食らうとは、難儀な世の中になったものですね。しかもそれをやっている人たちが「多様な価値観」「だれもが自分らしく」なんて言っているとは、ブラックジョーク以外の何物でもありませんね。
— わすれとんかち (@dorafan2112gma1) May 17, 2021
新聞広告は大勢の眼に入って目立つのだし、
社会的影響力もそれだけ大きいです。
それが問題含みの表現なら、
なおさら批判する必要があることです。
そうした社会的影響力のある著作物を
ネットで一般の人たちが批判する程度で
「人民裁判のような吊し上げ」なんて、
なにを大袈裟すぎることを、
この反対派は言っているのかと思います。
「人民裁判」などと異様に過剰反応するのは
一般の人たちによる批判をあたかも
問題があることのように思わせ、
自由に作品を評論できない状況を
作り出すことになるでしょう。
それこそ「体制や権力に都合のいい
批評しか許さない」という全体主義国の
ような事態になりかねないです。
そのような基礎的な事実さえも
正確に認識せず批判をするのは、
選択的夫婦別姓の反対派(非共存派)には
ありがちだと思います。
ようは無責任に批判している、ということです。
>田村淳さんに対する非共存派の態度の方が吊し上げ
自分たちの攻撃的態度を棚に上げて、
被害者づらするといったダブルスタンダードも、
反対派(非共存派)にはありがちです。
http://taraxacum.seesaa.net/article/485609039.html