2021年06月08日

亡くなった作者の考えは考察できない?

6月7日エントリの続き。

「野比しずか」の広告は、「のび太」は
名前だけなのに、「野比しずか」は婚氏が
入っているという、不自然さがあります。

広告の作者はなにを考えて、このような
アンバランスなことをしたと思うかと、
広告を擁護する反対派(非共存派)に、
わたしはツイッターでお尋ねしました。

 

そうしたらこの選択的夫婦別姓の反対派
(非共存派)は、作者の藤子・F・不二雄は
すでになくなっている(だから作者の考え
など知りようがない)、などと言ってきました。
とても衝撃的なことを言うと思います。


ここでの問題はふたつあります。
ひとつはいま議論になっているのは
「野比しずか」の広告ですから、
「作者」も「広告の作者」になります。
『ドラえもん』の原作者、藤子不二雄ではないです。


もうひとつは、作者がすでに亡くなっていても、
作者はなにを考えてその作品を作ったか
考察はできるし意味もあるということです。
考察するのはもちろん、その作品を
発表して時点での作者の考えです。

「すでに亡くなっている作者の考えは
考察できない」とでも「わすれとんかち」は
思っているのでしょうか?
そうであれば作者が亡くなっている
世界中のあらゆる古典の鑑賞は不可能です。



あるいは「亡くなっている作者は現在の
意見を言えない」とか「亡くなっている作者には、
現在は直接意見を聞けない」とか、
そんな意味なのかもしれないです。

批判されると「私はそんな意味で
書いたのではない」と、あとづけで釈明する人は
ときどきいますが、亡くなった作者には
それができないことが問題なのでしょうか?



「わすれとんかち」が「亡くなった
作者の考えは考察できない」という
趣旨のことを言い出したのを見て、
あきれたかたもいるかもしれないです。


「わすれとんかち」は「答えたくないので
苦し紛れの言い逃れをした」の感が満載です。


posted by たんぽぽ at 11:43| Comment(0) | ウェブサイト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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