「野比しずか」の広告は、「のび太」は
名前だけなのに、「野比しずか」は婚氏が
入っているという、不自然さがあります。
広告の作者はなにを考えて、このような
アンバランスなことをしたと思うかと、
広告を擁護する反対派(非共存派)に、
わたしはツイッターでお尋ねしました。
https://t.co/EhEAUoR6EV くだんの広告は「のび太」は名前だけなのに、「野比しずか」は婚氏が入っているというアンバランスを、あなたはどう思いますか? 作者はなにを考えて、名前の表記をこうしたと思いますか?
— たんぽぽ (@pissenlit_10) May 17, 2021
そうしたらこの選択的夫婦別姓の反対派
(非共存派)は、作者の藤子・F・不二雄は
すでになくなっている(だから作者の考え
など知りようがない)、などと言ってきました。
とても衝撃的なことを言うと思います。
「作者はなにを考えて」も何も、ドラえもんの作者の藤子・F・不二雄先生はもう25年も昔に亡くなっているのですが。
— わすれとんかち (@dorafan2112gma1) May 17, 2021
ここでの問題はふたつあります。
ひとつはいま議論になっているのは
「野比しずか」の広告ですから、
「作者」も「広告の作者」になります。
『ドラえもん』の原作者、藤子不二雄ではないです。
もうひとつは、作者がすでに亡くなっていても、
作者はなにを考えてその作品を作ったか
考察はできるし意味もあるということです。
考察するのはもちろん、その作品を
発表して時点での作者の考えです。
「すでに亡くなっている作者の考えは
考察できない」とでも「わすれとんかち」は
思っているのでしょうか?
そうであれば作者が亡くなっている
世界中のあらゆる古典の鑑賞は不可能です。
ほんとその通りなので、創作における作者の意図が…というやつは、山月記も羅生門も風と共に去りぬも読むなよ、と思う。あと聖書とか論語も。百人一首も禁止。 https://t.co/ktZnHsVFX9
— 3a8(ab) (@saya_fairyland) May 18, 2021
あるいは「亡くなっている作者は現在の
意見を言えない」とか「亡くなっている作者には、
現在は直接意見を聞けない」とか、
そんな意味なのかもしれないです。
批判されると「私はそんな意味で
書いたのではない」と、あとづけで釈明する人は
ときどきいますが、亡くなった作者には
それができないことが問題なのでしょうか?
作者が生存していれば、私はそんな意味で書いたんじゃない!という主張が認められるとでも思っているのかな?
— らっちゃん💃🐘🎠わきまえたことない (@MIkRxZ7QQLCU0) May 18, 2021
一度世に出た作品は、読者が評価するものなんだけど。
「わすれとんかち」が「亡くなった
作者の考えは考察できない」という
趣旨のことを言い出したのを見て、
あきれたかたもいるかもしれないです。
いやもう「作者はとうの昔に故人」という指摘で開いた口が塞がらなくなりました。相手にする価値はないな、と。私はたんぽぽ様のほどは親切ではないので。
— 猫。🐟🐾😾 (@nekoacademy1) May 18, 2021
「わすれとんかち」は「答えたくないので
苦し紛れの言い逃れをした」の感が満載です。