つぼみカフェに集まっていた
10代の女の子たちが、「視察」に来た
馳浩自民党議員の一行の横柄な態度を見て、
「なんでそんな人たちが議員なの?」と
感想を語ったのでした。
「仁藤夢乃さんバスカフェ視察の自民党の馳浩などのグループの態度がひどいと告発、男性議員のセクハラ疑惑も」
「こっちが活動を見せてあげてるのに、すごく偉そうで無理だった」「邪魔しに来ないで欲しい」「態度デカすぎ。気持ちをわかってくれないと思う」「自分を一番に考えていて、わかろうとしてない」「なんでそんな人たちが議員なの?」と10代のメンバー。女の子たちや活動への尊重は感じられませんでした
— 仁藤夢乃 Yumeno Nito (@colabo_yumeno) April 22, 2020
「なんでそんな人たちが議員なの?」は、
「なんでそんな人たちが選挙で
当選して議員になれるの」という
意味かもしれないです。
「そんな人」でも選挙で当選して
議員になることは問題なくできます。
ジェンダー差別的な言動を取ったことが、
票や議席にまで影響するという事態は
めったにないからです。
議員がジェンダー差別的な言動をすれば
それなりに批判はされます。
それはその議員としては都合が悪いです。
少し前にも自民党の杉田水脈によると
思われる「結婚改姓したくないなら
結婚しなくていい」という野次があったとき、
強い批判がありました。
「改姓が嫌なら結婚しなくていい?」
これは自民党や発言主とみられる
杉田水脈にとって都合が悪いことでした。
彼女たちはこの件について
極力発言しないという戦略で、
批判の嵐が過ぎ去るのを待ち続けました。
それでもこのようなジェンダー差別的な
言動は票を減らすほどの深刻なことには
(おそらく)ならないということです。
票や議席が減る事態にならなければ、
いちいち頓着しないのが議員です。
とくに自民党議員は票にならないことへの
無頓着さは強いと思います。
かくして(自民党)議員たちは
いくら批判されても、そのジェンダー差別的な
言動を改めないことになります。
なぜ議員がジェンダー差別的な言動で
票や議席を減らさないかといえば、
「オンナコドモのことはくだらない」
という日本社会に広がっている
政治的ミソジニーがあると思います。
「政治的ミソジニー対策をどうするか」
「くだらない」ことなので、
政治家にジェンダー差別的言動あっても、
世論は問題視しないことになります。
かくして有権者たちは選挙の投票行為にも
反映させないということです。
付記:
政治家のジェンダー差別的な言動が
選挙にはっきりと影響したのは、
2013年5月の橋下徹による
「慰安婦必要」発言くらいだと思います。
「橋下の慰安婦必要発言」
この発言が批判されたことが原因で、
2013年6月の東京都議会選では、
維新の獲得議席は2という惨敗でした。
候補者を34人も立てたにもかかわらずです。
昭和生まれの両親に聞いた話ですが、一部の人にとっては昭和時代は歴史になっていないようです。
私からすれば昭和元年も64年も同じ昭和時代ですが、昭和前期と昭和中期以降を分ける人もいるようです。
日本史に詳しくありませんが、昔は「明治時代」「大正時代」「昭和時代」という分類ではなかったようです。昭和20年を境に時代が変わったとみなす人いるようです。
>昭和の生き残り
単に長生きしているというだけなら、
それを恥ずかしいと思う人はいないでしょう。
そうではなく、「過去の思想に拘泥する」という
意味でしたら、恥ずかしく思わないどころか、
「むかしはよかった」と思っている人が多そうです。
過去の思想への拘泥を恥ずかしいと思える
メンタリティのかたなら、そんな過去の思想への
拘泥からは脱却できていると思います。
>昭和20年を境に
1945年は太平洋戦争の敗北という、
その後の日本を大きく変える重大事件がありました。
なので、時代は「大きく変わって」います。
「明治時代」「大正時代」「昭和時代」なんて、
ひとりの男性が死んだだけで切り替わる
時代区分が不自然、ということです。
重大事件があって世の中が大きく変わったときを、
時代の区切りとするのが妥当でしょう。
近代以降は1945年と1992年が、
そうした時代の区切りになると思います。
>違和感感じる人も
感じる人もいる、というか、感じない人がいるほうが
わたしにはむしろ意外です。
ファミリーコンピュータは1980年台、
昭和の最末期に登場したものです。
コンピュータ自体がない時代の、
戦前の小学生がファミリーコンピュータで
遊ぶなんて、あきらかに違和感ありです。