「伝統」が議論に出てくること自体は、
不毛ではない、「伝統かどうかの判断」を
議論することが不毛なのだと、
「うなぎ」氏は言いたいのかもしれないです。
不用意に他人の価値観を否定して反発を招く事実上のネガティブキャンペーンだ。選択的だから夫婦同姓を選びたい人は選べますよ!!で良いのに。
— うなぎ(steel_eel) (@dancing_eel) February 1, 2020
普通に考えて『お前が伝統だと思っているものは伝統ではない』なんて言われて納得する人は最初からそれに価値を見出だしてない人だけですよ。『50年では伝統ではないなら何年からなら伝統になるんです?真の伝統なら良いの?』みたいな不毛な議論になるだけです。
— うなぎ(steel_eel) (@dancing_eel) February 1, 2020
ひとたび伝統の議論になった場合なら、
「伝統かどうかの判断」を議論することは
かならずしも不毛ではないと思います。
「伝統と思われているものが
伝統でないことをしめすのが民俗学の役割」
なんて言うかたもいます。
伝統かそうでないかの判断は、
学術の対象にもなるということです。
「伝統への懐疑・民俗学の役割」
自分が大学のころ民俗学を教わった先生は、「民俗学をの役割は、伝統と言われているものがいかに伝統でないかを明らかにすることだ」と言っていたなあ。神前結婚式は明治天皇の結婚式で最初にできた(つまり近代に入ってから)とか、伝統はたった10年でできるとかいろいろ興味深かった。
— 三原龍太郎 (@RMihara) May 4, 2012
選択的夫婦別姓の議論に関しては、
「夫婦同姓は日本の伝統」と主張する
反対派に反証するためであれば、
夫婦同姓が日本の伝統かどうかを
議論するのは、必要なことでしょう。
ある種の人たちにとっては、
伝統は望まない人にも押し付けないと、
維持できないもののようです。
自分たちだけでやっていると、
伝統を続ける人が少なくて「すたれる」と
思っているのかもしれないです。
こちらですね。
「伝統回帰論への懐疑」
http://taraxacum.seesaa.net/article/282021753.html
1. 本当に伝統か?
比較的新しいものではないか?
2. 万人が共有できたか?
だれかの犠牲の上に成り立っていないか?
3. 本当に帰れるのか?
伝統と信じられているものが
じつは伝統でないことをあきらかにするのが
民俗学の役目だ、なんて言うかたもいます。
http://pissenlit16.seesaa.net/article/456521335.html