2019年06月22日

むかしも貧困は子育てに負担だった

6月14日エントリで、「むかしは貧しくても
いまより子だくさんだ」などと言って、
子育てや教育に公的扶助を行なう家族政策を
否定するという、よくある主張を見てきました。

「貧困で子どもが持てなかった敗戦直後」

過去が現在より出生数が多いことはたしかです。
その理由は簡単には
1. 子どもひとりあたりにかけるリソースが
いまより少なかった
2. いまより子どもの死亡率が高かった
があると思います。

 


1. 2017年の大学進学率は男子55.9%、女子49.1%、
大学院進学率は男子14.9%、女子5.7%です。
これは大学や大学院を卒業しないと
それなりの仕事に就けないことを意味します。

「第1図 学校種類別進学率の推移」

社会のほうもある程度以上の
大学卒や大学院卒の存在を必要としています。
それだけ専門的な知識や技術を持った人でないと
従事できない業務があるからです。

明治時代の義務教育は小学校だけでした。
それでも学校の勉強なんて役に立たないと言って、
子どもを中退させて家の仕事を
手伝わせる親も、めずらしくなかったです。

現在から見るとはるかに低学歴ですが、
それでも社会は維持できていました。
このくらい教育にかけるリソースが
現在とくらべて少なければ、人数だけなら
いまより多くの子どもを持つことはできるでしょう。


2. 2017年の乳児死亡率(1歳未満で
死ぬ子どもの割合)は0.19%なので、
産まれた子どもが死ぬ心配はまずないです。

「赤ちゃんが無事に育つ国 : 乳児死亡率は世界最低レベル、母子手帳も貢献」

明治・大正時代の乳児死亡率は15%程度でした。
子どもが4-5人いればひとりやふたりは
死んでも当たり前になります。
たくさん産んでも「全滅」することも、
珍しくなくあることになります。

むかしはどこの家も(サムライだけでなく
農民や商人でも)跡取りが必要でした。
それで夭折する可能性を考えて、
子どもをたくさん産むことになります。


跡取りを確保するために、たくさん子どもを
産んだ場合、幸運にしてみんな生き延びると、
「多く産みすぎる」こともあります。
そして「多く産みすぎた」子どもは、
どの家庭も経済的に負担となります。

江戸時代の場合、「多く産みすぎた」子どもは
都市(とくに江戸の街)に送ることになります。
当時の江戸が、世界的なレベルで
人口の多い都市だったのは、
余剰人口の「掃き溜め」だったからです。

「江戸時代の人口調整方法」

江戸(都市)に送られた子どもは通常、
一生江戸(都市)で暮らすことになります。
生家で跡取りが死んだので、代わりに来てほしい
という事態にでもならないかぎり、
生家に呼び戻されることはまずないです。

それでも飢饉が起きるなどして
きゅうに貧困におちいったときなど、
「多すぎる」子どもの対処が間に合わなくなると
非常手段として「まびき」をすることになりました。


明治時代になっても「多く産みすぎた」子どもは
やはり経済的な負担となりました。
それゆえ里子に出す家庭もありました。

夏目漱石は五男坊で、母親が高齢出産だったので、
この理由で里子や養子に出されたことは、
よく知られたお話だろうと思います。

「夏目漱石(なつめそうせき)」

本名は夏目金之助。母親が高齢出産だったこと、
漱石誕生の翌年に江戸が崩壊し
夏目家が没落しつつあったことなどから、
漱石は幼少期に数奇な運命をたどる。

生後4ヶ月で四谷の古具屋(八百屋という説も)に里子に出され、
更に1歳の時に父親の友人であった塩原家に養子に出される。
その後も、9歳の時に塩原夫妻が離婚したため
正家へ戻るが、実父と養父の対立により
夏目家への復籍は21歳まで遅れる。


明治時代も江戸時代もいつの時代でも、
子育ては経済的負担がかかることでした。
そして貧しい家庭は当時の基準で
子どもを育てられなかったということです。

posted by たんぽぽ at 22:25| Comment(0) | 家族・ジェンダー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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