反ジェンダー平等に走るきっかけのひとつに、
女性からこっぴどい失恋をしたとか、
仕事や趣味の女性のライバルから
手酷くしてやられたということがあると思います。
彼らのミソジニーは、こっぴどい失恋をしたとか、仕事や趣味の女性のライバルにしてやられたとか、個人的な恨みがもとになっていることが多いみたいです
— たんぽぽ (@pissenlit_10) 2019年5月20日
このような個人的体験による恨みを
女性一般に拡大させたのが、彼らの反フェミや
ミソジニーということになるでしょう。
彼らの反フェミやミソジニーが、
かかる女性に対する個人的恨みを
一般化させたものだとすると、はなはだやっかいです。
感情的反発が根底にあるので、
理屈で説得することはほぼ不可能だからです。
どんな事実や根拠を示しても、
感情的反発を解消することはまず不可能です。
彼らの反フェミやミソジニーは
自身の感情的反発の正当化のためなので、
「はじめに結論ありき」だからです。
彼らに差別的考えをあらためてもらうためには、
自分で感情的反発をする自分と、
向き合ってくれるよりないです。
それは他人が議論を通じてできることではないです。
このような「個人的恨みの一般化」による
反フェミやミソジニーは、リベラル・左派や左翼と
される人(男性)にも見られることがあります。
他者の権利や自由を尊重するのが、
リベラル・左派や左翼なのに、
相手が女性のときだけ、その本来のスタンスの対極に
走るのはどういうことかと思うところです。
権利や自由の尊重を標榜していても、
自分の気に入らない相手にだけは
平気で権利や自由の侵害ができる人は、
残念ながら珍しくないです。
それゆえ女性だけはご都合主義で
本来のスタンスの例外扱いができるというのは、
それくらい女性に対する個人的恨みは、
ある種の男性にとって根が深い、
ということかもしれないです。
「女性に対する個人的恨みの一般化」をする男性は、
もともとそのようなジェンダー差別的な
素地があった、ということだと考えられます。
それまで反フェミ、ミソジニーが
顕著でなかった男性だったとしても、
潜在化にそうした差別的な女性観やジェンダー観が
あったということだと思います。
それが「個人的恨み」を持つにいたる体験をすることで、
表面化したということだと思います。
そして最初から、女性を見下している、という素地があるのでしょう。
— 猫アカデミー@調和制伏 (@nekoacademy0) 2019年5月21日
もともとジェンダー差別的な素地があったから、
女性に振られたとき「女が自分の思い通りに
ならないのは許せない」と感じるのでしょうし、
自分を打ち負かしたライバルが
女性であることが受け入れられないのでしょう。
ジェンダー差別的な素地がなければ、
失恋しても「他人が自分の思い通りに
ならないことがあっても当たり前」と理解できます。
自分が打ち負かされたのは、
「ライバルが女性」以外のことに原因が
あることも受け入れるでしょう。