選択的夫婦別姓の反対派(非共存派)です。
8月13日エントリでお話した「選択的夫婦別姓の実現は
国民の多くが受け入れる必要がある」と類似の意見です。
「国民的議論が必要」も、主張するのはもっぱら反対派です。
反対派以外で主張する人はほとんど見ないです。
国民的議論がないのは認めるみたいですね(苦笑)
— 四条烏丸 (@nanaarek20) 2018年7月26日
それはたいした問題ではないからです。夫婦別姓のインパクトは大きいから国民的議論が必要ですよ、それがないうちは進みませんね。
— 四条烏丸 (@nanaarek20) 2018年7月27日
選択的夫婦別姓の国民的議論はあるかどうかですが、
「ある」と言っていいと、わたしは思います。
最近でも2015年の最高裁大法廷回付のときも
これに前後して議論がたくさんなされました。
「夫婦別姓訴訟違憲判決ならず」
2016年の女子差別撤廃委員の日本審査のときも
議論になりましたし、2017年にサイボウズの青野慶久氏が
夫婦別姓訴訟を提訴を決めたときも、話題になりました。
「CEDAW日本審査・民法改正」
「夫婦別姓訴訟・青野慶久らが提訴」
そのたびに「夫婦同姓を強制しているのは世界中で
ほぼ日本だけ」といった、選択的夫婦別姓問題に関する
認識も広まって行ったと思います。
わたしに言わせれば、選択的夫婦別姓の実現のために
「国民的議論」など必要ないと思っています。
理由は8月13日エントリでお話した「国民の多くが
受け入れる必要」なんてないことと同じです。
選択的夫婦別姓が導入されても、自分が夫婦同姓を
選択することはさまたげられないです。
他人が夫婦別姓を選択しても、自分にはほとんど関係ないです。
そんな「どうでもいいこと」など、自分の知らないところで
話が進んでも、どうということはないでしょう。
なぜ選択的夫婦別姓の反対派(非共存派)は、
「国民的議論が必要だ」などと言うかですが、
これも「国民の多くが受け入れる必要がある」と
主張するのとほぼ同じ理由だと思います。
ひとつは戦後民法で規定された「家族イデオロギー」に
対する自分の「信仰」が、選択的夫婦別姓の
導入によって揺らぐからだと思います。
自分個人の信仰にとって大問題なだけなのですが、
それを国民全体にとって大問題であるかのように
思い込んでいるということです。
「家族思想という信仰」
「家族思想信仰における「異教徒」」
また「家族イデオロギー」を「信仰」する人は、
国民の大多数も「信仰」に従っていると思い込みます。
自分にとって「議論が必要」なことので、
国民の大多数にとっても自分と同じように
「議論が必要」と思い込むということだと思います。
ふたつ目は、「国民的議論が必要」と言うことで、
自分のような反対派(非共存派)を、多数派だと思わせたい
(思いたい)ということがあると思います。
自分を多数派の一員と誤信した推進派が、
自分の説得を試みることを期待しているのでしょう。
あるいは自分のような反対派が多数派だと
推進派が誤信すれば、選択的夫婦別姓の実現は絶望的と思って
諦めると思っているのかもしれないです。
3つ目は、自分が反対するためにくちばしを挟める
議論を増やしたいので「国民的議論が必要」と
言うのだろうということがあります。
反対派(非共存派)はどんな理屈や根拠を見せられても
絶対に説得されることのない、頑迷きわまりない人たちです。
自分が議論に参加すれば、選択的夫婦別姓の議論を
半永久的に続けさせる自信があるのでしょう。
「反対派と議論すると...」
「説得されない選択的夫婦別姓反対派」
「説得されない選択的夫婦別姓反対派(2)」
それゆえ自分が介入できる議論が多いほど
選択的夫婦別姓の実現を妨害する機会が増えるので、
反対派(非共存派)にとって都合がいいということです。