2018年06月01日

差別はあっていい?それなら...

メインブログでご紹介した、「選択的夫婦別姓を
実現させたいなら、推進派は自分がわかるように説明しろ」と
要求を続けるかたは、かなりすごいことを言っています。

「私は別に差別があってもいいと思います」
「全ての差別は無くすべきとでも考えてますか?」ですよ。


それなら「riosis11」さん
あなたを差別してもかまわないということですね。



「差別はあっていいと思います」とか
「すべての差別をなくす必要があるか疑問」と言いながら、
自分が差別されたら「差別はあってはならない」とか、
「差別はなくさなければならない」と言い出したら
矛盾しているし、自己中心的もはなはだしいですからね。

自分が差別された場合であっても
「差別はあっていいと思います」とか、
「すべての差別をなくす必要があるか疑問」と、
同じように主張していただきたいと思います。

また「riosis11」さんにおかれましては、
「私は差別をなくす必要はなくあっていいと思っているから、
みんなは私を差別してくれてもかまわないよ」と、
日ごろから公言するのがよいだろうと思います。

でないと「riosis11」さんを差別してはならないと、
誤解するかたが出てくるからです。
ふつうのかたはあなたと違って、差別はなくさなくてはならないとか、
差別はあってはならないと、考えていると思うからです。


そうしたら「riosis11」は、
「たんぽぽは、自分を差別させようと扇動している、
助けてくれ」などと言ってきました。
なにを泣きごと(?)を言っているのかと思います。


「riosis11」は「差別はあってもいい」
「すべての差別をなくす必要があるのか疑問」と言っています。
それなのに自分が差別されそうだと思ったら、
助けてもらって差別をなくそうなんて、
前述の「矛盾」して「自己中心的」もはなはだしいことを、
まさしくしてくれたと思います。


ほかにも「riosis11」は、「差別はあってもいいと
言うだけなら、差別をする加害者にはならない」とか、
「差別の存在の肯定であって、差別行為の肯定ではない」とか、
まったく意味不明な「釈明」をしてきました。


差別は具体的な行動で現れることです。
(思っているだけで、どこにも表に現れないなら、
さすがに「差別している」と批判されることはないし、
差別していないのと同じように扱われるでしょう。)
よって「差別の存在の肯定」は「差別行為の肯定」と
いうことになると言わざるをえないです。

もうひとつは「自分は差別はあってもいい」と
思っているだけで、みずから直接手を下して
差別するのではないから問題ないと言いたいのでしょうか?
差別したのが他人だとしても、「riosis11」はそれを
黙認、追認、支持、肯定をするということですから、
やはり差別に加担したことになります。

またこの場合でも「自分を差別してくれても
かまわない」ことになることに、変わりはないです。
「差別の存在を肯定する」ということは、
自分が受ける差別であっても存在を肯定しないと、
矛盾しているし、自己中心的になるからです。


こんなふうにごちゃごちゃ言ってくるというのは、
ようするに「riosis11」も自分は差別されたくない、
ということなのだと思います。

自分が差別されることが嫌だと言うなら、
差別はどんなものでもあってはならないし、
すべての差別を疑問の余地なくなくさなければ
ならないと、考えるよりないでしょう。

「riosis11」が「差別はあってもいい」
「すべての差別をなくすことに疑問」と言ったとき、
差別されるのはあくまで他人であり、
自分だけはどんな状況でも差別されない「特権」があるという、
虫のよすぎることを考えているのかもしれないです。


そんな自己中心的で身勝手もはなはだしいことなど、
わたしは許さないよ




posted by たんぽぽ at 23:28| Comment(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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