2018年04月21日

相撲はスポーツでなく宗教?

土俵の上で倒れた舞鶴市長の応急措置を、
女性が行なった件ですが、ジェンダー差別主義者は、
このような事態が起きても「女を土俵に上げるな」という
差別的因習を守りたいもののようです。

「救助中の女性に「土俵から降りて」」


それでも女性が土俵に上がって応急措置をしなければ、
舞鶴市長は助からなかったという厳然たる事実を
まったく無視したり否定したりすることは、
さすがの彼らもむずかしいもののようです。

 
彼らなりにこのジレンマに対して折り合いをつけたと
思われる意見として、つぎのツイートがあります。
「人命救助優先」は正義だが「女を土俵に上げるな」という
差別的因習も正義だ、という主張です。
両者を同等に扱うことで、切り抜けようというのでしょう。


はじめにわたしが言いたいことは、
「女を土俵に上げるな」なんて差別的因習の、
いったいどこが「正義」なのか?ということです。
そんなものは「独善」でしかないと思います。
人命救助と同等に扱わないでほしいものです。


最初のツイートのかたは、今後はどうするべきと
考えているかですが、「女を土俵に上げるな」という
因習を守るために、男性だけで人命救助ができる
体制を整えろと、考えているものと思われます。



そんな非効率なことを考えないで、男性でも女性でも
応急措置をできるかたが、人命救助に当たれるように
するほうがいいに決まっています。

そして人命救助を例外措置にするのではなく、
「女を土俵に上げるな」という因習自体をなくすことです。
それが「根底の部分から改善」されることです。


最初のツイートのかたは、相撲は「宗教」であって
「スポーツ」でないと言っています。
それゆえ「女を土俵に上げるな」は宗教の教義であり、
「当たり前の正義」であると主張しています。

相撲協会は日本の法律上は公益財団法人です。
宗教法人ではないので、法的には宗教でないことになります。
相撲は宗教だと主張するなら、まずは相撲協会が
宗教法人になる必要があるだろうと思います。



相撲は古代においては神事として行なわれていたので、
かつては宗教活動の一環だったのでした。
現在の相撲は、その流れを汲んでいるから
「スポーツでなく宗教」だというのかもしれないです。

そうだと言うのでしたら、ブフ(モンゴル相撲)も
宗教儀式としてなされていたことがあります。
ブフは現在でも「スポーツではなく宗教」と考えるでしょうか?

古代オリンピックは大神ゼウスに捧げる祭典でしたから、
まさに宗教行事ということになります。
最初のツイートのかたの理屈によれば、
古代オリンピックで行なわれていた、もしくは起源を求められる競技
(ボクシング、レスリングも含む)は、すべて「宗教」になります。

古代オリンピックで行なわれていた競技は、
現在でも「スポーツではなく宗教」と言えるでしょうか?
そう考えている人はどれだけいるでしょうか?


「宗教だから人命がかかっていても、
女性を土俵に入れるな」と言うのでしたら、
その宗教がそもそも間違っているだろうと思います。
人間のために宗教があるのであって、
宗教のために人間がいるのではないからです。
宗教が人間の命を犠牲にするのは本末転倒です。

冷めた言いかたをすれば、宗教なんてしょせん
むかしの人が作った社会規範とも言えます。
ジェンダー差別が当たり前の時代に作られた宗教なら、
その中にジェンダー差別的な規範もたくさん入りこむでしょう。
そんな規範は、時代の変化に対応するはずもないです。

「宗教だから」という理由で差別を正当化するなら、
差別される人たちから見れば、その宗教は「邪教」です。
信者や理解者を減らすことにもなるでしょう。
「そんなまがまがしいものはさっさとなくなれ」です。



付記:

最初のツイートのかたは、ツイッターでわたしを
ブロックしていることがわかりました。
差別を正当化する宗教は邪教だという主旨のツイートを、
わたしが送ったことが原因と思われます。




posted by たんぽぽ at 22:20| Comment(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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