反対派(非共存派)は、こんなことも言っています。
「選択的夫婦別姓を認めろ」というのは、
「アラビア文字を名前に使えるようにしろ」と
言うのと、同じことなのだそうです。
「各人の選択の自由で」究極的に是とするなら、“ある者はアラビア文字、ある者は文字を用いず音だけ、ある者は姓字名の3つ、ある者は名のみ、それぞれバラバラのやり方でもいいじゃないか”もOKですよね?
— ほんづ (@Hiroshi516) 2018年2月17日
これは「ドミノ理論」「危険な坂道理論」の一種でしょう。
「ドミノ理論」とは「選択的夫婦別姓を認めたら、
あれも認めろ、これも認めろとなる」という主張です。
「同性婚と夫婦別姓・ドミノ理論」
「詭弁・誤謬【一度○○を許せば、たちまち××になるであろう (ドミノ理論)】」
「ドミノ理論」が出てきたら、その主張には根拠がなく、
デマ同然の「とんでも」と言っていいでしょう。
実際に「あれを認めろ」とか「これを認めろ」という事態に
なったことはないし、「ドミノ理論」が正しかったと
証明されたことなどはないからです。
最初のツイートは「ドミノ理論」を変形していると思います。
「選択的夫婦別姓を認めることは、あれを認めることや
これを認めることと同じ」というかたちだからです。
「将来の予測」というかたちにしないことで、
予測が外れても自説が間違っていたことにならないように
しているということであり、巧妙な用心とも言えます。
最初の反対派のかたにおかれましては、
日本で名前にアラビア文字を使いたい人はどれだけいて、
アラビア文字を名前に使えないことで
どんな不利益があるかを、具体的に示すことだと思います。
「選択的夫婦別姓を認めろ」というのは、
「アラビア文字を使わせろ」と同じですね、
「ギリシャ文字を使わせろ」と同じですね、
「ヘブライ文字を使わせろ」と同じですね、
ただ「言うだけ」なら「簡単」です。
大事なのは必要性があることを証明することです。
「選択的夫婦別姓を認める」ことと、
「名前にアラビア文字を使えるようにする」ことは
同じだと言い出したのは、最初の反対派のかたです。
したがって必要性について証明するのは、
もちろん最初の反対派の責任となります。
ツイートでいっしょに並べている「音だけの名前」や
「3つの名前」や「名前のみ」も同様です。
これらの導入を望む人がどれだけいて、
認められないことでどんな不利益があるのか、
導入の必要性を具体的に示されたいです。
その必要性はじゅうぶん理解できることであれば、
日本で名前に「アラビア文字その他」を
使えるようにすることは、まじめに検討することだし、
また実際に検討する人たちも出てくると思います。
「3つの名前」はすでに国際結婚で認められています。
よって「アラビア文字その他」も、本当に必要性があるなら、
実現する可能性はじゅうぶんあるでしょう。
https://t.co/4vMWo2lkl9
— kirikomio (@kirikomio) 2018年2月18日
「アラビア文字を認めろ」等という人が出てきたら考えればいいことですよね。姓名3つは国際結婚では既に認められているし(例:クルム伊達公子さん)。その時代の「妥当な線」を設定するのが法制度だと思います。
「アラビア文字その他」に必要性があることを
「ほんづ」が証明できないなら、「アラビア文字その他」は、
選択的夫婦別姓を認めることと同じ扱いには、
まったくできないということです。
選択的夫婦別姓の導入を求める人は一定数存在し、
認められないことの不利益もはっきりしているので、
導入の必要性をはっきり証明できるからです。
「アラビア文字その他」に必要性がないとなれば、
「ほんづ」の主張は「机上の空論」にすぎないです。
子どもの屁理屈レベルの難癖をつけて、
選択的夫婦別姓を求める人たちに、嫌がらせをしている
「モンスター」にも見えるというものです。