という、別姓反対派や反反差別の人にありがちな主張です。
別姓反対派や反反差別の人でなくても、
このような認識の人は結構いるかもしれないです。
そうやって理解されようとしないから、この40年何の進展も無いのですよね?
— おやつ休憩・まっつ (@maz_remus) 2017年9月3日
同性婚の方は色々世論を形成されて、自治体がパートナーシップ証明書を発行するまでになったというのに
選択的夫婦別姓の導入がなぜ必要かなんて、
それこそおおむかしから議論されていることです。
情報もかなり蓄積されています。
現在それらにアクセスすることはさほど困難でないです。
いくらでも理解できる環境が整っているのに、
この期におよんで「推進派が理解される努力しないから
理解できない」なんて、よくよくの怠慢か情報弱者でしょう。
このくらい徹底して「理解責任」を放棄した人を
理解させられる人なんて、世の中に存在しないと思います。
一般論として差別は「差別する側」の問題です。
マジョリティの側に「理解責任」があるということです。
それを「被差別側に理解される努力が足りない」ことにするのは、
自分たちの「理解責任」を、相手の「説明責任」に
転嫁していることになります。
「選択的夫婦別姓の必要性が理解できない、
伝わってこない」といつまでも言い続けるのは、
別姓反対派(非共存派)が使い古した戦略のひとつです。
彼らは推進派がどんな根拠や事実を示しても、
決して理解することはなく、「自分が理解できる根拠を示せ」と
いつまでも言い続けて、推進派に無限の説明を要求します。
相手に無限の時間と負担をかけさせることで、
永久に反対し続けようということです。
「反対派と議論すると... パラノイア的精神状態」
「反対意見の人とも、じゅうぶん議論するべきだ」
「われわれ反対派の意見を排除するべきでない」ということを、
選択別姓反対派は、よく言ってくることがあります。
これは一見「民主的」で、正論のように聞こえます。
しかし、こうした「とんでも」たちと、真正面から議論に応じたら最後です。
いつまでたっても説得できないどころか、おんなじような議論を、
さんざんくり返したあげく「まだ、じゅうぶんな議論がなされていない」と
平然と言われたり、なにがあっても「必要性が自分には伝わってこない」と
強弁され続けて、無限の時間稼ぎをされたりで、
それこそ、ビリーバーたちの「思うつぼ」になるだけです。
このような自分の理解責任を相手の説明責任に
転嫁するという、別姓反対派の「戦略」に乗せられると、
推進派はなにも得るものがないばかりか、
無駄に消耗することになります。
「推進派は理解する努力が足りない」と
言われることに対して、選択的夫婦別姓の推進派は、
むしろ拒絶する必要と理由があることになります。
このブログがトップに出たのですが、あまり一般的な呼称ではないのでしょうか?
わたしのオリジナルではないですが、
一般的には使われていないだろうと思います。
はなから理解する姿勢がないのに、
自分が理解しないのは相手の説明がふじゅうぶんだから、
ということにして、相手に無限の説明を
要求する人たちは珍しくないです。
そんな彼らが果たすべき責任を、
「説明責任」ということばの対義語みたいな感じで、
「理解責任」と言い表したのだろうと思います。
なるほど、理解する気がさらさらなく喧嘩腰の人を揶揄するための造語なんですね。
相手から一定の説明を示されたら、それを理解する責任もある、
ということは問題にすることだと思います。
でないと、相手の「説明責任」に転嫁して、半永久的に反対を
続ける卑怯者を、跋扈させることになると思います。
前のコメントのことで恐縮ですが、
検索でわたしのブログが上位にくるのは確認しました。
これはちょっと意外でした。
「理解責任」はあまり浸透している概念ではないようですね。