2017年03月11日

全能幻想からミソジニーへ

深淵な非もてのサイトのかたは、以下のコンテンツで
「恋愛に過大な機能性を見積もる」などと書いています。
徹底して自分の利益や打算しか考えていなくて、
相手のためになにかする気はないみたいです。

「「恋愛不要論」「対幻想論」の偽善」

それとは対照的に若い頃の孤独との格闘の日々の中で
恋愛に過大な機能性を見積もる ようになった私が
心から共感できるような恋愛観を (小説の中とはいえ)
書いているというのは、実に感動的で心強いことである。


 
この文章は「恋愛に過大な機能性を見積もる」の部分が
リンクになっていて、その先を見ると自作小説が出てきます。

「散文変奏>甲四」

小説なのでフィクションですが、自分の意見を述べている
文章からリンクしているので、作中に出てくる人物の考えは、
作者である非もて氏の考えでもあると見てよいでしょう。

次のようにこの作中人物は、「子ども時代のように
自分を甘えさせてくれる女性が欲しい、
でないと孤独で苦痛だ」という非もて氏と同様の
精神的な「お子さま」を発揮しています。

甲四の言葉を理解し共感する能力を有し、
且つ甲四が自らの一切を晒し切ることを躊躇わせる要素を
持たぬひとが一人さえいてくれればいいのである。
子供の時は親がその機能をほぼ完全に果たしてくれていた。
親は全てに於いて自分を遥かに凌いでおり、
自分の日常の全てを、無知の全てを、感情の全てを親に晒すことが、
ある種の安堵感を成立させていた。
しかしそうした自らの能力では対処できない苦難が一つある——孤独だ。
子供時代、親に完全に縋り切ることによって獲得していた
安堵感というものが、実は親の能力や性格以上に
子にとっての親の価値の大部分を占めていたのだ
ということを今になって痛感する。
あの安堵感が絶たれているというだけのことで、
これほどまでに孤独の苦しみに囚われる
羽目になるとは思いも寄らなかった。


これを作者自身の考えでもあるとすると、
深淵な非もてのサイトのかたは、子どものころの自分にとって
親が全知全能だったので、現在も自分は女性に対して
同じような全知全能を求めるという、ある種のマザコン男に
ありがちなタイプであることがわかります。

子どもはおとなと比べて圧倒的に知力がないです。
それで自分の親が「スーパーマン」に見えただけのことです。
親なんて実はたいした存在ではないことは、
おとなになればいい加減気がつくことだと思います。

ところが中にはいつまでも「親はスーパーマン」という
幻想から抜け出せず、「スーパーマン」がほしい欲望を、
現実の女性に求める男性はときどきいるようです。


深淵な非もてのサイトのかたは、かつての自分は
子どもだったから、親が「スーパーマン」に見えたことは、
文章から察するにいちおう理解している感じです。

それでも現在の現実の女性に対して「スーパーマン」を
求める幻想からは、抜け出せないようです。
その幻想と現実とのギャップを、次のように表現しています。

甲四は自分の頭の良さを恨む。あるいは日常の中に自分より相対的に
愚かな乙どもしか見当たらないという現実を嘆く。

「女はみんなばかだ」というミソジニーですよ。
最初の一文にあるので、それなりに強調したいのでしょう。
あとのほうでも同様のことが出てきます。

ところがどういう訳か、甲四程度の知性ですら、
それとつり合う乙の分布密度は激減してしまうのだ。

「女が自分の思い通りにならない」という、
自己中心的な要求をこじらせてミソジニーに走るのは、
非もてにはありがちですが、深淵な非もてのサイトのかたも
そういうところはあるもののようです。


そんなことよりも、わたしに言わせれば、
いい歳したおとなになって「子どものときのように
甘えさせてくれる女性が欲しい」などと言っている
「がきんちょ」のメンタルを、まわりの女性たちと
同程度に成長させろよと思います。

まわりの女性たちが自分とつり合わないと言うなら、
愚民思想からみのミソジニーを吐いていないで、
自分が精神的におとなになってつり合うようにしろ、です。


posted by たんぽぽ at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 家族・ジェンダー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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