深淵な非もてのサイトのかたは、子ども時代に愛情いっぱいで
育ってきたこと、そしておとなになった自分に
子ども時代と同じような愛情を注いでくれることを
恋愛相手に求めている、ということを見てきました。
そのような精神的に「お子さま」の状態を引きずっている様子は、
次の文章でよりはっきりと表現しています。
「落どした場所>甘え」
子どものころは、親に甘えられたのでよかったけれど、
おとなになってだれにも甘えられなくなったことが、
想像に絶して苦痛で恐怖だ、などと書き綴っています。
おいの感性ど欲求機構の変化に伴って、
親が甘えの対象どしてはまるで機能しねぐなったごどば、
甘え自体が不要になったがみでぐ錯覚してだのっさ。
誰にも甘えねくて済んだのは、「甘えの蓄え」があったがらなのっさ。
三十歳ぐれえになるまでの次の十年間に、
おいはあの小学三年時に抱いた恐怖が正に杞憂でねがったごどば痛感した。
甘えの蓄えば使い果だしたっつうごどなのが、
孤独の持続っつうごどなのが、愛情の不在っつうごどなのが
——記述方法は色々どあっぺげっと、現においは少くとも
子供時代の想像ば遥かに絶して苦痛になり得でっと思う。
上述の文章は、「深淵な非もてのサイト」の以下の
部分から、文章中リンクされています。
「「恋愛不要論」「対幻想論」の偽善」
ところが、そういうふうに、かつては無理解で逆に馬鹿にしてくるような
「余裕」の あった連中が、二十代後半になって、
ようやく「孤独の苦しみ」を吐露して きたりすると、
ああ、なるほど、この人たちの苦痛は、あの頃はまだ「閾値」 (敷居)に
達していなくて、苦痛の蓄積が「飽和状態」に達するまで、
まだまだ余裕があったということなのだなあと考察される。
つまり、私が十代後半から意識し始め、二十代前半では既に切実に耐え難く
煩っていた孤独の苦しみを、二十代後半になってから
ようやく意識し始める ような人たちもいるのだなあと思う。
つまり、そういう意味も含めて、孤独の苦しみを「知る」には、
恋愛の 不在を「せめて十年間〜二十年間ぐらい」は
体験する必要があるだろうと言う訳だ**
この文章は「恋愛対象からの愛情を注がれることが、
自分にはどうしても必要だ」という力説をしています。
つまり「自分には愛情が注がれることが必要だ、
子ども時代には親から受けたが、おとなになったいまは、
その愛情を恋愛対象に求める」ということです。
深淵な非もてのサイトのかたは、恋愛の名のもとに
女性を搾取するタイプということだと思います。
恋愛相手に母親を求めるマザコンタイプの男性がいますが、
この「非もて」はそれをはるかに超えていると思います。
子ども時代の幸せを埋めてほしい、などと考えている、
精神的に「お子さま」を引きずっている男性の
すべてを包み込める全能の愛情なんて求められても、
通常の女性はとても受け入れられないでしょう。
男性からそのような扱いを受けることに、
たいていの女性はへきえきしていると思います。
いいトシした成人男性が「子ども時代のように
自分を甘えさせてくれる女性が欲しい」ですよ。
この非もては、自分が精神的に自立できない
「お子さま」であることに、ぜんぜん問題を感じないみたいです。
早く自立したかったわたしからしたら、とても想像できないことです。
自立できないということは、庇護者が必要ということであり、
それは庇護者の都合によって、容易に自分の権利や尊厳が
損なわれる恐れがある状態だからです。
深刻な非もてのサイトの人は、自分を甘えさせてくれる
女性がいないことを、「恐怖」とか「苦痛」とか書いてもいます。
わたしは自立が妨げられて庇護者が必要なほうが、
いつ無権利状態になるかわからず「恐怖」で「苦痛」です。
だいたい「おとなになっても子どものときと
同じように甘えたい」なんて、いつまでも精神的に
「お子さま」であるということを、「情けない」とか
「みっともない」とは、思わないのかと思います。
(わたしはとても気持ち悪いですよ。)
「あなたにとってはみっともないことでも、
自分にとっては必要不可欠な大事なことなんだ」なんて、
非もて氏お得意の「カチカンの相対性」とやらで、
自己正当化してくるのでしょうか?
この非もて氏は、自分の精神的な「お子さま」ぶりを
このように堂々と公言してはばからない人です。
よって精神的に「お子さま」な自分を、
第三者(とくに恋愛対象に目された女性)からはどう見えるかを、
まったく顧みていないことは、たしかだと思います。