2017年01月29日

粘着質と無害な人とが同列?

1月28日に削除した「ヒラリー」のコメントに、こんなものがあります。
わたしは自分がされて嫌なことを人にするという、
とても人聞きの悪いことを言っています。

http://lacrima09.web.fc2.com/figs2/comment20170128-2.html

 
それと、たんぽぽさん。
どちらかで、身内?ブロックされて悔しがっておりますが、
自分がされて嫌なことを人にするのはやめましょうね。

詩を書かない詩人より。


「ブロック」というのは、「物置き」の1月27日ポストで
話題にしたことだろうと思います。

「わたしをブロックした人がアカウントを削除していた」

そして「ヒラリー」は自分が、わたしのブログから
投稿お断りになったことを、意識していると思います。

「粘着質な人を投稿お断りにした経緯の記録」


そうだとしたら、わたしは「自分がされて嫌なことを人にする」
などと言われることは、なにもしていないです。
わたしをツイッターでブロックした人は、
わたしとの交流はなく、わたしが危害を加えたわけでもなく、
ブロックの理由がはっきりしないです。

「ヒラリー」をわたしのブログで投稿お断わりにしたのは、
「粘着」「嫌がらせ」「荒らし」「対話にならない態度」
「論旨不明瞭で不必要に長いコメント」「セクハラ」「差別」
「攻撃的態度」といった、明確な加害行為があることによります。

はっきりしない理由でブロックするのは、通常は理不尽と考えるでしょう。
「ヒラリー」のような多種多様な嫌がらせをする人を
投稿お断りにするのは、身を守るために当然と言えます。
両者はまったく異なるということです。
なぜに「ヒラリー」は粘着をし続けた自分と、
粘着をぜんぜんしない人とが、同じと思えるのかと思います。


「ヒラリー」は他人のブログに粘着することを
ささいなことだと思っていると思われるフシがあります。
粘着する側はどれだけ狼藉を働いてもよく、
粘着される側はどれだけ負担であっても、それをがまんして
受け入れなければならないくらいに思っているみたいです。

「粘着なんてささいなこと?」

「ヒラリー」はそういう感覚の持ち主だから、
粘着のかぎりをつくした自分を締め出すのと、
取り立ててなにもしていない人を締め出すのとが、
同等に扱われることだと思っていられるのでしょう。



付記:

わたしをツイッターでブロックしたフェミニストの人を、
わたしは「身内」とは思っていませんよ?
先方もわたしを「身内」とは思っていないと思います。
「ヒラリー」からは「同類」に見えるのかもしれないですが。

それからくだんのフェミニストにブロックされたことを、
わたしは悔しいとも、取り立てて思っていないです。


posted by たんぽぽ at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | ウェブサイト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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