2016年06月29日

「あんた、話になんねーよ」

6月18日エントリで、わたしは「話になんねーよ」なんて
言われたっけ?という趣旨のことを書いたのでした。
「「あんた話にならないよ」とかコメントし」たというのは、
具体的になにを指しているのかと思います。
わたしには思い当たるものが見当つかないです。

該当するものがあることがわかりました。

「美味しんぼの鼻血表現」
たんぽぽさん
あんた、話になんねーよ。

(2014年05月27日 22:54)


ごていねいに探したかたがいらしたのですよ。

http://tamagodon.livedoor.biz/archives/51930939.html#comments
ニャオ樹氏は、間違いなく書き込んでいる。
>たんぽぽさん
>あんた、話になんねーよ。
>Posted by ニャオ樹・ワタナベ@モバイル at 2014年05月27日 22:54
http://taraxacum.seesaa.net/article/397414294.html

(3. ジャジー 2016年06月26日 14:43)


「ジャジー」はさらにこんなことを書いています。
「いらないこと」とはなんのことかと思います。

そのときのたんぽぽさんは、いらない事を書いてニャオ樹氏を挑発してしまった。
>>たんぽぽさん
>>あんた、話になんねーよ
>そういうのは、反論できなくなったかたにありがちな
>「吐き捨て」なんだけど、そう解釈してよいのかしら?
>Posted by たんぽぽ at 2014年05月29日 19:54

(3. ジャジー 2016年06月26日 14:43)

「あんた、話になんねーよ」こそ「いらないこと」ですよ。
「挑発した」と言うのなら、ニャオ樹・ワタナベさまだと思います。
わたしは「いらないことを書かれて挑発された」ほうですね。


たんぽぽさんは、自分が殴られた(批判された)恨みはいつまでも忘れないのに、
自らが他人を殴ったことは、簡単に忘れてしまうらしい。

(4. ジャジー 2016年06月26日 15:04)

「あんた、話になんねーよ」に関しては、
ニャオ樹・ワタナベさまがわたしを殴ったと言えます。
(あえて「殴る」という表現を使うなら。)
この件に関しては、わたしは他人から殴られたことを忘れていたという、
「ジャジー」のもの言いとは正反対の「お人好し」ということです。


以下の「ジャジー」の「推測」はぜんぜん違っています。
ここまでくると曲解もはなはだしいです。
「ジャジー」も印象操作をしたいのかと思います。

「吐き捨て」などという言葉は、
「わたしの仲間は、わたしの意見に賛成して当たり前」
「わたしの仲間は、わたしを批判したり離れたりしないのが当たり前」という、
傲慢な考え方から生じたのだろうと私は推測する。

(4. ジャジー 2016年06月26日 15:04)

わたしは(2014年05月27日 21:14)のコメントで詳しい返信をしたのですが、
それを「話になんねーよ」のひとことで片付けるという
誠意のないことをしたので、それを「吐き捨て」と表現したまでです。

実際、返答に詰まった人にありがちな態度だと思います。
それとも「話になんねーよ」のひとことで済ますのは、
「吐き捨て」と表現してはならない誠意のある態度だと、
「ジャジー」は言いたいのでしょうか?

そしてわたしは「そう解釈してよいのかしら?」と疑問形です。
「話になんねーよ」と断定するよりずっと穏健と言えます。
この程度の皮肉を返したくらいで、なんで「傲慢」とまで言われて
人格攻撃されなければならないのかと思います。


わたしはなにをされても、いくら非礼な態度で踏みつけられても、
頭を下げ腰を低くして対応しなければならないなどと、
「ジャジー」も考えているのかと思います。

「いらないことを書いて挑発する」ことがそんなに許せないなら、
先に「話になんねーよ」と言ったニャオ樹・ワタナベさまのことを、
「傲慢な考え方から生じた」と「推測」することですね。


「仲間意識」うんぬんにいたっては、
どこからそういう「推測」が出てくるのかと、さらに思います。
「いらないことを書いて挑発する」のが、
「仲間意識」の表れというのも不可解なことです。

その不可解なことだと言うのなら、ニャオ樹・ワタナベさまこそ
「自分に賛成して当たり前」とか、「自分を批判したり離れたり
しないのが当たり前」と思っていた、ということになりそうです。

「ジャジー」は、「いくら踏みつけられても
腰を低くしていなければらない」と自分が決めている存在が
抵抗を示したので、「逆らうとはなまいきなやつめ」と思って、
「傲慢」と感じたということかもしれないです。


posted by たんぽぽ at 22:37| Comment(4) | TrackBack(0) | ウェブサイト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
たんぽぽさま
ご対応を支持致します。
(むしろ、今まで対策してなかったことが意外。)

この時のニャオ樹・ワタナベさんは、最初からひどく頑なで、何かおかしかった。
ご友人一家の体験を、ただ自説の補強のために使っているようにしか見えないのも、
他の話題での、特に奥様への情深い態度に慣れた目には、異様なことに映りました。
決して議論が進む内に変容していった訳では無く、

>「あんた、話になんねーよ」

で、確かに議論を打ち切っているが、誰かに触発されて出た言葉ではないというのが
私の見解です。
(流れから言えば、たんぽぽさまより、むしろたまごどんとやり合っていたような気がする。)

あえて私ごときが評価を下せるならば、
ニャオ樹・ワタナベさんは健全な関係を築ける人間だと思いますよ。
”理解できない、理解が得られない。”と判断したら、さっさと離れて行きましたね。

理解されないことに恨みを抱いてつきまとったり、←
聞こえよがしに悪口を言ったり、←

しないだけでも、なかなかできないことだと思いますし、
現在に至るまで一切関わろうとせず、沈黙を守っているのは、
いっそ潔い態度だと思います。
議論ではお互いに理解を得られなかったが、人としては一定の敬意はある。
あるいは、
議論に負けて、これ以上みっともないところを晒したくない。
という意地なのかも知れませんが。
(とても”男”らしい人だという印象があるので。)

ps.当時のことは、
『ニャオ樹・ワタナベさんほどの人でも、”トンデモ”に引っかかるときは、引っかかるんだ…』
『そして一旦ハマると、どれだけ常軌を逸した行動を取っていても、気がつかないんだ…』
ということを学んだと思っています。

…うーん、この人の場合、どうしても心から”あっちに行っちゃった”
とは思えないんだよなあ…一時の気の迷い、としか…
Posted by あやめ at 2016年07月04日 00:48
あやめさま、こちらにコメントありがとうございます。

>ご対応を支持致します。
>(むしろ、今まで対策してなかったことが意外。)

ご評価ありがとうございます。

>で、確かに議論を打ち切っているが、誰かに触発されて出た言葉ではないというのが

突然出てきたのですよね。
前触れがあったのではなかった。


>ニャオ樹・ワタナベさんは健全な関係を築ける人間だと思いますよ。
>”理解できない、理解が得られない。”と判断したら、さっさと離れて行きましたね

>しないだけでも、なかなかできないことだと思いますし、
>現在に至るまで一切関わろうとせず、沈黙を守っているのは、
>いっそ潔い態度だと思います。

それが誠実の限界ということかもしれないです。
(すでにご覧になってない可能性もありますが。)

ニャオ樹・ワタナベさんに関して、わたしがすごいと思ったのは、
以前にも2回真正面から議論になったのに
(地球温暖化、高速道路の無償化)、離れなかったことだと思います。
たいていは1回きりで終わりますから、2回まで関係が切れなかったのは
それこそなかなかできないことだと思います。


>理解されないことに恨みを抱いてつきまとったり、←
>聞こえよがしに悪口を言ったり、←

「ジャジー」はずっとあそこにいたけれど、
「ヒラリー」と「D」がまだずっとわたしの周囲をうろついていて、
慰安婦の議論に便乗して、あそこに出てくるとは思わなかったです。
Posted by たんぽぽ at 2016年07月04日 21:55
お返事ありがとうございます。

>ニャオ樹・ワタナベさんに関して、わたしがすごいと思ったのは、
>以前にも2回真正面から議論になったのに
>(地球温暖化、高速道路の無償化)、離れなかったことだと思います。
>たいていは1回きりで終わりますから、2回まで関係が切れなかったのは
>それこそなかなかできないことだと思います。

えええええ、そうだったんですね…
 (ロムを全部追えてない)
その二つのテーマの方が、意見の対立はより深刻になるような気がしますが、
何がそんなにニャオ樹・ワタナベさまの琴線(≒怒りの導線)に触れたのか、
やっぱりわからないですよね。
人の心の不思議、というものをしみじみ思います。

かの男性差別の時の、情理に通じたコメントの数々は今なお忘れがたい、
何度も繰り返し読みたいやりとりです。
Posted by あやめ at 2016年07月06日 00:12
またまたコメントありがとうございます。

>その二つのテーマの方が、意見の対立はより深刻になるような気がしますが

3回目はなぜだめだったのかは、わからないです。
考えられることとして、3回目はかなり議論が
長引いたこともあるかもしれないです。
長引いた理由はもちろん「ジャジー」の粘着です。

わたしは何度も「ジャジー」に警告のエントリを出したのですが、
「ジャジー」と同じ側で議論した自分も責任の一端を感じた
ということもあるかもしれないです。

自分が直接警告されたのでなくても、同じ側で議論している人が
警告され続ければ、自分にも言われているようで、
いい気分はしないこともあるでしょう。

そう考えると、ニャオ樹・ワタナベさんがいなくなったのは
「ジャジー」に原因があることになります。
ほかにも原因はあるでしょうし、ほかの原因のほうが
大きいのでしょうが、ここでは「ジャジー」のせい、
ということにしておきます。
Posted by たんぽぽ at 2016年07月06日 22:01
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