言わずもがなでしょう、日本も「他人ごと」ではないということです。
「きょうのハンガリー」は「あしたの日本」になる可能性があるということです。
「「3分の2」進む権力集中 2010年ハンガリー 中道右派が大勝
新たな憲法 個人より共同体」(全文)
「憲法裁判所の人事も介入」
「「バランス欠く」メディアに罰金」
「個人が義務果たす社会に」
「視点 傍観者ではいられない」
ハンガリーで起きている立憲主義に対する民主主義からの挑戦。
「非立憲」的政治は、日本でも進んでいる。傍観者でいられるだろうか。
メインブログで見てきたように、ハンガリーの新憲法は、
立憲主義の否定という大きな特徴があります。
個人の自由と権利の制限、因習的な家族観の重視や、
国粋主義への傾倒、福祉否定と親族の扶養義務の強化、
政府による憲法裁判所やメディアへの介入など、
自民党の憲法草案と同様の思想がたくさん含まれています。
日本でも反立憲主義的な憲法改正を悲願とする安倍政権が
2013年の参院選、2014の衆院選と大勝してきたのでした。
2016年の参院選で改憲勢力が3分の2以上の議席を取れば、
いよいよ憲法改正に着手する可能性があります。
ハンガリーの後を追う可能性は高くなるということです。
「立憲主義」は「人間は不完全である」という前提に立っています。
権力者も人間がなるものだから間違いをおかすこともあるし、
長く権力を持っていればいずれ腐敗する可能性があるということです。
そうした権力の間違いや腐敗に対処するために、
憲法で権力を縛る必要があるということです。
http://www.magazine9.jp/interv/kobayashi/index.html
かつては、その強大な権力を、一人の個人や家が独占していた時代がありました。
すると例外なく、権力は堕落していきます。
それは人間が不完全なものだからです。
そういった失敗の歴史を経て、我々は学び、長く放っておけば
必ず堕落する権力というものに、たがをはめるために、
憲法が作られたものなのです。
立憲主義の否定は、いわば「自分たちは絶対に間違えない」とか
「絶対に間違えない人間がいる」という思想です。
「自分たちこそが権力であり、判断基準」などと
思っているなら、独裁者や専制君主と同様ということになります。
しかし、自民党の二世、三世議員、世襲で権力者の階級に
なっているような人たちは、「自分たちは間違えない」と勝手に思い込んでいる。
なぜかというと、自分たちこそが権力であり、判断基準だから。
民主主義の制度の中では、権力は永遠じゃないのに、
自分たちは永遠に権力の座にいる気なんですね。
「自民党・改憲の解説漫画」
@konishihiroyuki @kinokuniyanet
— 芹沢亀吉 (@Genbu108) 2015年5月3日
こういう漫画もありますね。釈迦に説法かもしれませんが張っておきます。立憲主義の何たるかを全く知らない自民党が作った憲法漫画なんて読む価値のない駄作ですが、こちらは秀逸です pic.twitter.com/4ZjwiF7F3d
多数で決めたことであっても同様です。
多数といえどもみな人間だから間違いをおかすことがあるし、
(多数だからかえって不確かでおかしなことになることもあります。)
そうした多数の専横は防ぐ必要があるということです。
「多数決は民主主義ではない」です。
民主主義は時に多数の専横を生む。
だからこそ、憲法で権力を縛るという立憲主義の考え方を手放すわけにはいかない。
立憲主義が根底におくのは、「多数で決めたことでも、だめなものはだめ」。
自由で民主的な社会には、民主主義と立憲主義を
バランスよく使っていく術が不可欠だ。
ヒトラー・ナチスが政権を得たのも、議会選挙を経てですし、
独裁政権のもとになった全権委任法も、まがりなりにも
議会の賛成多数で成立したものだったのでした。
ヒトラー・ナチスは多数で決めたことが
ぜんぜん民主的でないことがあるという典型的な事例です。
こうした立憲主義の仕組みは、一朝一夕でできたものではなく、
長い歴史のあいだに、たくさんの試行錯誤や失敗を
重ねたのちにたどり着いたことも、言及する必要があるでしょう。
その「試行錯誤」や「失敗」の中には、戦争や革命といった
たくさんの人間の血が流れる事件もあったわけです。
「立憲主義はひとつの見かたに過ぎない」などとうそぶいて
「べつの世界観」を作ろうとする自民党の憲法草案や
ハンガリーの新憲法は、人類が歴史の中で血を流して
築き上げた成果に対する冒涜でさえあると言えるでしょう。
関連エントリ:
「ハンガリー・反立憲的新憲法」
「ハンガリー・反立憲的新憲法(2)」