「いつわりの伝統」についての記事を見てきました。
「それホンモノ? 「良き伝統」の正体」
(はてなブックマーク)
この記事の最後に「いつわりの伝統」や「むかしはよかった」が
好きな人は、おうおうにして「道徳」が好きという指摘があります。
「昔は良かった」と考える人が強調するその道徳教育、
安倍政権は18年度以降に小中学校の「特別教科」とすることを決めた。
著書「新しい国へ」で盛んに「問題はモラル低下だ」と
指摘していた安倍首相らしい。
因習・反動的な人たちは、なにかと「道徳」を持ち出して来ます。
義家弘介はいじめ対策のために、GHQの戦後改革を否定して、
道徳教育に力を入れるべきだ、という主張をしていたのでした。
「いじめ問題は解決できるのか」
義家 やはりGHQの戦後の民主化で、なるべくしてなったと私は思います。
学校教育の中で宗教教育は排除されました。
修身等の共通の物差し、倫理観、道徳観が排除されました。
多様な価値観と言えば格好は良いですが、
未熟な子どもの多様な価値観は非常に危険です。
特に、社会ルールとか倫理の部分にそれを持ち込むのはいけません。
ここでわたしがとくに興味を惹いたのは、
こうした「道徳」はかつて共産主義国で重視され、
実際に道徳教育に力を入れたことがあるという、記事の指摘です。
そしてうまくいかなかったという歴史があるのでした。
「20世紀で、最も道徳教育に力を入れたのは
旧ソ連や中国など社会主義国家でした。
自分より公を大切にせよ、と。でも結果はご存じの通り。
歴史上、どんな国・社会も道徳教育で『理想の人間づくり』に
成功した事例はありません。これこそ『伝統』なんですが」。
「自分より公を大切にせよ」という考えが好きな人も、
日本の因習・反動的な人たちの中に多いと思います。
「戦争に行きたくないのは利己主義」発言の武藤貴也は、
個人主義に問題ありという考えを何度も披露しています。
「別姓は個人主義の問題?」
日本の因習・反動的な人たちは、共産主義国と同じことをするのが
大好きだと、わたしはつくづく思います。
彼ら因習・反動的な人たちの多くが信奉しているであろう
「家族思想信仰」も、共産主義国に見られる国家による
家族管理と共通する特徴が見られるのでした。
「共産主義国の反同性愛」
「共産主義国の反同性愛(2)」
日本の因習・反動的な人たちも、共産主義国もどちらも
国家や社会によって個人をやたら管理したがります。
それゆえ「道徳」の強調という点でも両者が似てくるのは、
ごもっともなことと言えるでしょう。
「道徳」というのは、しょせん国家や体制による個人管理のために、
都合のいいお題目を並べているだけと言えます。
それゆえ因習・反動的な人たちの利益にとっても
都合がいいので、彼らは強調したがるということです。
前述の義家弘介は奇しくも価値観の多様性を否定して、
道徳教育を導入するべきだと主張しています。
まさに「道徳」は「人権」と対立する概念であり、
「道徳」は「人権」を否定するということだと思います。
必要なのは「道徳教育」でなく「人権教育」ということです。
道徳教育の必要性を語っている政治家たちが、同級生への性的虐待イジメや女性教師への爆竹リンチをした経験を罪の意識無く語っている姿を見ると、絶対に彼らが言うような道徳教育は子供にやらせちゃいけないし、そもそも必要なのは道徳教育ではなく人権教育だと思う。
— 勝部 元気@『恋愛氷河期』発売中 (@KTB_genki) 2015, 8月 6
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