「III. 女性たちはどのように徴集されたか 2. 朝鮮からの場合」
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暴力的連行のケース
暴力的連行のケースは、朝鮮からの連行に限ると、つぎの証言がある。
文玉珠は、1924年に生まれた。父が早くなくなり、
母が針仕事や物売りをしてやっと生活できるような状態だった。
ときには実家から穀物を貰わなければやっていけなかった。
ときどき日本人が経営するスリッパ向上で働いたが、
いつも仕事があるわけではなく、そんな時は家でぶらぶらしていた。
また、ハルコという日本名をつけた朝鮮人の友だちの上によく行った。
その家は過そばで死体を焼く仕事をしており、
死体を焼く前には祭事があるので、いつもお供え物をごちそうになった。
毎日お腹をすかしている状態だったのである。
40年の秋に連行されたが、その時の状況はつぎのようにのべられている。
満16歳のときだった。
ある日、私はハルコの家に遊びに行きましたが、
日が沈みかけたので、ハルコの家を出て自分の家に帰りかけました。
まだいくらも歩かないうちに、軍服を着た日本人が私に近寄ってきました。
彼は突然、私の腕を引っ張って、日本語で何か言いました。
その頃は,巡査という言葉を聞くことさえ恐ろしい時代だったので、
私は何も言えず彼に引っ張られるまま連れて行かれました。
……連れていかれた先は、憲兵隊ではないかと思います。
彼女は、中国東北の軍慰安所に入れられる。拉致した日本人は、
軍人か、巡査か、カーキ色の国民服を着た民間人か、断定できない。
しかし、夕暮れ時であること、連れがいないこと、
民間人らしき人物にひき渡されていることなどから、
民間人による誘拐の可能性が高いのではないだろうか。
もちろん、警察がこのような犯行を見落とすか見逃すということは、
軍から慰安婦送出への強い要求があるのだから、ありえたことだろう。