これらはつねに念頭に置いておきたいものです。
いじめ問題が起きると「正義感を持て」と子供に説く大人は多いが、時には、「正義感の暴走」こそがいじめの原因になるという側面があることも教えるべきだろう。自分が本当に正義なのかを疑え、相手が本当に悪なのか疑えと。仮に相手が悪だとして、相手が再起不能になるまで叩くべき悪なのかを疑えと。
— KRTさん@ぷにぷにするぷに (@KRTsan30) 2013, 12月 31
箇条書きにして整理すると、
1. 自分が本当に正義かを疑えになるでしょう。
2. 相手が本当に悪かを疑え
3. 相手が悪だったとして、そこまで徹底的に叩きのめしてよいかを疑え
自分が「正義」と確信した人は、無遠慮に攻撃的になります。
そして「正義」なんて往々にして独善的なことが多いです。
みずからを「正義」と確信した人たちの攻撃的態度によって、
引き起こされる惨劇はすくなくないです。
よって自分は本当に「正義」なのかと顧みることは、
つねに必要になってくるのだと思います。
わたしが思うに、これらのうち3.がとくに守れなかったり
理解できなかったりする人が多いようです。
ツイッターでも、3.についてわたしにいろいろと
異論を述べてきたかたがいらしたのでした。
これも3.がとくにわかりにくいことをしめしていると思います。
とくにネットには、自分が「正しい人」になりたがる人も多いです。
そうした人にとって他人の落ち度やあやまちは、
自分が「正しい人」になるために叩く「ねた」でしかなかったりします。
それゆえ眼前にある落ち度やあやまちを、なにかのゲームのように
全力をあげて攻撃することしか念頭になくなるわけです。
自分の批判が周囲にどのような影響を与えるかとか、
相手はそこまで徹底的に攻撃するに値する「悪」なのか、
といったことは、ぜんぜん顧みなくなります。
彼らはなぜ3.が大事なのかさえ、理解しようとしないでしょう。
彼らは「批判されるようなことをするのが悪い」と言うだけでしょう。
こうして自分が「悪」と決めた相手に対しては、
自身のリソースが許す限り攻撃することになっていくのでしょう。
それゆえ「正しい人」は怖いのだと思います。
「正しい人が怖いです」
精神科通院者や自殺未遂の経験者あるいは児童虐待の被害者を取材しているとき、「正しい人が怖いです」という言葉をよく聞いた。社会貢献を志す方は、この声によく耳を傾けてほしい。
— 今一生@固定ツィ見たらRT (@conisshow) 2010年10月19日