歴史修正主義を例に挙げていますが、一般論として成り立つことだと思います。
「あけましておめでとうございます。毒を吐きます。」
歴史修正主義は、多数派にのみ都合のいい歴史を組み立てて、
都合の悪いものを切り捨て、捏造する。
世の中にはいろんな考えの人がいるよね〜っていっても
許せるものと許せないものがあって、歴史修正主義は許せないもののほうだし、
許さないことが要請されてることだよ。
多様性の名のもとに、何もかもを許容していくことは正しくない。
もともと、「多様性の尊重」は(私はこの考えあんまり好きじゃないけど)、
放っておけばいないことにされてしまうような
差異をもった人や集団のありかたを、肯定的にとらえようとする
主張だったはずなのに、 その主張のもとで「なんでもあり」が
許容されてしまえば、 ただの虚構になり下がってしまう。
上記エントリは2012年1月のものですが、
「多様なカチカンの尊重」の名のもとに、とんでも理論や危険思想を
擁護する人たちは、まだまだいるのでしょうか?
「多様性の尊重」が唱えられるようになったのは、1990年代からでした。
ネットの黎明期には、それにかぶれた反知性的な人たちが
結構たくさんいたようで、彼らはとんでもや危険思想を擁護して
「多様性を尊重する自分は寛容だ」などと悦に入っていたのでした。
わたしがむかしかかわった、ネットの選択的夫婦別姓の
市民団体の人たちは、この反知性主義の見本でしたよ。
単にとんでもや危険思想を擁護するだけでなく、
これらを批判する人を「多様性が尊重できない、不寛容だ」と
決めつけて、ひたすら排撃さえしていたくらいです。
わたしも、かかる反知性主義者の「多様性の尊重」には、
さんざん被害を受けたクチだったのでした。
おかげで「多様なカチカンの尊重」というお題目に
攻撃的で反知性的でかえって不寛容と感じるようになって、
苦手になってしまいましたよ。
「「多様な価値観の尊重」が苦手」
上記エントリのかたは
「多様性の尊重」は(私はこの考えあんまり好きじゃないけど)と書いているのですよね。
わたしとおなじような、嫌な体験をしたのでしょうか?
体験はわたしと違っているのかもしれないけれど、
なにか不愉快な経験であろうことは予想できます。
それで「多様性の尊重」というお題目に対する考えかたや感じかたは、
わたしとおなじようになっているのかもしれないです。
あと、決着がついたことを何度も蒸し返すことで、周りの詳しくない方々に、未確定と思わせることもありますね。
足止め効果とも言います。
事実は事実だし、決して許してはいけない人権侵害もあるでしょう。絶対的な基準はありえます。そして、それに反する「多様な意見」は、間違っています。
>知識や事実には自由はないので、多様性があるはずがありません
反知性主義者たちは、そこを根底から勘違いしていますよね。
確立した権威ある知見に、反対したり相対化したりすることで、
自分は賢くなったかのような錯覚を起こすのかもしれないです。
それから不勉強な人だと、基本的人権の正当性なんて
確立されていることがわからず、「実証されたものではなく
主観にすぎない」などと思っていることもあるのですよね。
>足止め効果とも言います
反知性主義者たちは、足止め効果に引っかかっている可能性もありますね。
それで「こういう反対意見も尊重する必要がある」なんて
思い込むのかもしれないです。