2014年03月01日

逆張りの精神・思考構造

すでに確立された既存の知的権威を懐疑したり否定したりして
「逆張り」することで、意識が高くなったような気分になる人、
というのは、それなりの数いるのではないかと思います。
みんなが信用しているものを疑うので、一般の人たちが気づいていない
「真実」に気づいたような意識になれるのでしょう。

つぎのようにネトウヨの精神・思考構造にも、知的権威に対する
「逆張り」があるのではないかと考えるかたもいらっしゃります。

https://twitter.com/SEXhsKF7/status/437003618852433920
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ネトウヨって近隣のことだけ見ててユダヤとかネオナチとか
そういう遠いところの話には無関心な印象あったんだけど、
最近の在特デモのハーケンクロイツ事件とか見ると、
なんかそっち系の団体と融合しつつあるのかな
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https://twitter.com/tmfm21/status/437009299697455104
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世界の意識高い人の共通認識みたいなものに逆張りするのが
ポリシーみたいになっちゃってるので、ナチス支持に至るのも自然な流れなのかね
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https://twitter.com/WildcatBooko/status/437014546809511936
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自分も以前から同じようなことをネトウヨに感じてましたね。
ああいう連中にとって「戦前」や「ナチズム」を
ことさら持ち上げるのは一種のプロテスト(のつもり)なんでしょう。
で、@tmfm21 さんおっしゃるところの「意識高い人」たちの
欺瞞や偽善に対抗している(つもり)でいると。
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ネトウヨ諸氏も確立された知的権威に対しては不満がありそうですね。
そんな彼らの精神・思考構造の一部には、知的権威に「逆張り」して
意識が高くなった気持ちになりたい、というものもあるのかもしれないです。


ネットの世界には、「マスコミは信用できない」と喝破して、
ネットに散らばっているいかがわしい情報を信用する、
いわゆる「ネットde真実」の人が残念ながらたくさんいます。
彼らもまた既存の知的権威に対する「逆張り」で意識が高くなった
気持ちになるというメンタリティもあるのでしょう。

確立された知的権威というのは、そのほとんどは多くの人たちが
苦心して築き上げたのですから、市井の人がちょっとやそっと
考えたくらいでは、覆されるはずもないものです。
それを懐疑したり否定したりすれば、ネトウヨにしても
「ネットde真実」の人にしても、反知性的になるのはとうぜんと言えます。


90年代には「カチカンの多様性」とか「カチカンの相対性」という
思考がはやり、このお題目に乗っかって「逆張り」をする人がいました。
「自分は賛同しないけれど、そういうカチカンも認めなければならない」
と言って、反知性的思考を擁護するのが、ありがちなパターンです。

2000年代に入ってもまだ影響が残っていたからなのか、
かかる「逆張り」をやる人たちは、ネットではまだ見られました。
わたしが見たかぎり2003年くらいまではあったと思います。

こうした人たちは、かかる知的権威は多くの人たちの検証によって
正統性が確立されていることを理解できないのですね。
それは客観的根拠によってしめされたのではなくカチカンのひとつに
すぎないと思い込んで、確立された知的権威を矮小化するのが特徴です。
この矮小化が「逆張り」ということになります。

彼らはにせ科学のような反知性主義に走ったり、
反人権思想や歴史修正主義のような、危険思想の擁護をするのが常套だったりします。
すでに研究のされつくした知的成果に対して議論を蒸し返すので
非生産的なことはもちろん、対象が対象なだけに
危険でさえあることは、言うまでもないでしょう。


わたしがむかし関わった、ネットの選択別姓の市民団体の人たちも
「多様なカチカンの尊重」というお題目が大好きでした。
それゆえ反知性的思考を擁護する「逆張り」をよくやっていましたよ。

その結果、自分たちが「多様かカチカンを尊重していない」
とみなした人を、不寛容と決めつけて攻撃して排除して
その人のカチカンを全面的に否定するという本末転倒になったり、
「とんでも」理論を信用して意識が高くなった気分になるという、
反知性的な事態に陥ったりしていたのでした。

「「多様な価値観の尊重」が苦手」
「反対意見なんか聞きたくない」

確立された知的権威に「逆張り」をしたところで、
しょせんは退廃思想にしかならないということなのでしょうね。
90年代的「逆張り」のなれのはてとも言えそうです。



posted by たんぽぽ at 19:20| Comment(2) | ウェブサイト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
自由とか民主主義とか人権といった観念にあえて反発したり、戦前戦中をことさら持ち上げたりする復古志向や、知性や論理よりも「実感」を重視したりといった傾向は、昭和2~30年代頃から保守層の間では連綿とあったと思われます。そういうことこそが正論だともてはやされることも。特に今になって現れたわけではなさそうです。ただ若い人の方がむしろそうした考えにかぶれるというのは最近の新しい現象かもしれません。
Posted by 御光堂 at 2014年03月02日 09:02
このエントリにコメントありがとうございます。

>昭和2~30年代頃から保守層の間では連綿とあったと思われます

いつの時代にも、そういう既存の確立された知的権威にさからうことで、
賢くなった気分になる人というのはいたのでしょうね。

昭和20-30年ごろは、戦前の思想もまだまだ残っていたでしょうから、
反人権思想や反民主主義思想に走ることは、
かならずしも「逆張り」というほどでもないのかもしれないけれど。

>ただ若い人の方がむしろそうした考えにかぶれるというのは
>最近の新しい現象かもしれません

最近の世代はさすがに戦前の思想の直接の影響は残ってないでしょうから、
彼らが反人権・反民主主義思想に走るのは、
「逆張り」で賢くなったつもりになる、というのがありそうに思います。
Posted by たんぽぽ at 2014年03月02日 16:58
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