戦ってきた大切な友人たちと対立すること」になったのですが、
それは原発の再稼働に関する見解が原因だとあります。
http://blogos.com/article/8938/
上の記事には書いていないのですが、
これまでの「友人たちと対立すること」になったのは、
「積極的に被災地のものを食べるようにしてい」て、
「被災地の食品を毛嫌いする人を」「信用しない」のも
もしかしたら、あるかもしれないです。
http://blogos.com/article/8938/?axis=&p=2
いかんせん、「脱原発派」の中には、被災地の農産物に関して、
こういう考えのかたもいらっしゃりますからね。
https://twitter.com/kikko_no_blog/status/155649634197438465
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「食べて応援」したい人は自分1人で勝手にやってろ!
周りを巻き込むな!子どもを巻き込むな!
お前1人で勝手にやってろ!それならあたしは何も言わない。
周りを巻き込んで何もしらない子どもたちまで
被曝させてるからあたしは文句を言ってるだけ。
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関連エントリ:
「脱原発運動の世界」
他所の子供の心配までできる善人もなかなかいないでしょう。まして現在のような大人にとっても先行き厳しい世の中にあっては。
>反原発運動の盛り上がり方がイマイチなのは
わたしの印象では、単純にとんでもが忌避される、という感じかな。
子どもをダシにすることへの批判は、
ないことはないのでしょうけれど、
それほど顕在化はしていないのではないかと思います。
でも今後、子どもをダシにすることに対して、
批判が集まってくる可能性はあると思います。
「夫婦別姓だと子どもがかわいそう」とおなじで
卑怯であることは、たしかですからね。
だから、子供手当てもあまり支持を集めず、かといって、子孫のために借金を残さないというのも支持されない。子供を持たない人にとっては所詮他人事であり、子供が勝ち組の「財産」であるなら、なぜ他人の財産のために奉仕しなければならないのだ、となっていきますから。
十数年ぐらい前なら「子供のために、子孫のために」という訴えもまだそれなりの神通力があったと思うんです。
これも格差問題であり、下の層が厚くなりすぎてしまった、という点で一連のものだと思います。
>「子供のために」という呼びかけ
「子どものために」というのは、結構殺し文句になりえると、
わたしは思うんだけどね。
それともわたしが、夫婦別姓や家族問題にかかわっているので、
そういうのを頻繁に見かけるだけなのかな。
>子供手当てもあまり支持を集めず
子ども手当てについては、「子どものため」という議論は
あまりなされなかったと思います。
反対論者からは、「親がパチンコに使う」とか
「将来につけを回すだけ」とか、むしろ「子どものためにならない」
という議論がなされたと思います。
子どもにためにならない、という主張が展開される
ということは、「子どものために」というのが
それだけ説得力がある、ということかもしれないですよ。
>それ以前の問題だから、贅沢な悩みとしてとらえられている面も
そのように考えるのは、いまのところ「非もて」だけ
ではないかと思います、はい。